エハラマサヒロさんに対する批判から意見に一貫性を求める理由を語る

また少し投稿間隔が空いてしまいました。今回は、エハラマサヒロさんの「待望の長男」発言について僕の考えを少し。

 

まずはこの記事をどうぞ。

 

エハラマサヒロ「待望の長男」発言への批判に反論(日刊スポーツ) - Yahoo!ニュース

 

記事を読んだ感想は「は~こんなことにも噛み付く人はいるんだなあ」というものでした。

 

僕がもしありがたいことに親になれたとしたら、男の子も女の子も両方育ててみたいなあと思っています(大変さとかは置いといて)。それに、男親として「自分の子供が男の子だったら、どういう育ち方をしてどういう人生を歩むのだろう」ということは気になります。

 

なので、仮に女の子が続いて産まれたとしてやっと男の子が産まれたとしたら「待望の長男」とか「待望の男の子」とか僕も言ってしまう気がします。エハラさんのような批判を受けないためにも気をつけないといけませんね(笑)

 

これを通して僕が言いたいのは「じゃあその批判を浴びせた人は『待望の長女』発言に対しても同じように批判してくれるのだろうか」ということです。

 

多分僕は男の子が続けて産まれたとしてやっと女の子が産まれたとしたら、これまた「待望の長女」と言ってしまうと思います。もし仮に今回エハラマサヒロさんがこちらの方の発言をしていたとして、先程の批判をした方は「男の子は無価値と思っているのか」という批判を飛ばしてくださったのでしょうか。

 

飛ばしてくださるなら「ああ、この人はこの人なりの価値観をちゃんと持っているんだな」と批判を無下にすることはできなくなります。

 

ですがもし同様の批判をしないのであれば。それが何を意味するのか。

 

それを僕は「この人は自分の都合が良くなるようにだけ意見する人なんだ」受けとります。そしてその人の批判に対する信頼性は僕の中で大きく下がります。

 

だからこそ、同様の問題に対して同じ意見を持つことは大事で、僕がそれを重要視している理由はここにあります(できているかはともかく)。

 

また少し飛躍が入りますが、今回の問題に関しては批判主さまが「男女差別主義者」であるという疑いもかけられる可能性もあります。女性のときだけ批判して、男性のときは批判しないというのは、暗に「女性は立場が弱いから攻撃する意見はきちんと批判して擁護しないといけない」という態度を表していると受け取られかねません。つまり、批判主さまは「女性は弱いものだと思っている/女性を差別している」という風に思われるかもしれないのです(少なくとも僕はそういう疑念を抱きます)。

 

そういうあらぬ疑いをかけられないためにも、意見に一貫性をもたせるというのは必要なことと僕は考えています。

 

後半の理由はややこじつけ感がありますが、本当に言ってることが一貫していないと信頼性を大きく欠きます。自分も気をつけていますが、できているかは自信がないです。

 

ただ、間違ったことはすぐに訂正できなければいけないので、一貫性を求めるあまり間違いを正せない人にはなりたくはないので難しくはありますが。

 

今回はこの辺りで。