某市長の学歴詐称問題について

これくらいの話が世間の話題になるんだなあ。

 

それが、この件の報道に初めて触れたときの感想だった。

 

静岡県伊東市の田久保市長が学歴詐称をしていたらしい。

自称・東洋大学卒が、実際は東洋大学から除籍されていたというもの。

 

しかし、この市長も絶妙なラインの嘘をつくものだ。東洋大学に入学しているものの、途中でドロップアウトしたことを隠し、卒業したとしていたもので、まったくの捏造とも指摘しづらいような気がする。

 

加えて、私は学歴なんてその人の本質でないと考えているので、まったく通ったことのない大学について経歴を捏造するならともかく、今回レベルの話は正直「あっ、そう。」としか思えない。

 

さらに言うと政治家を選ぶときに、学歴を見ているか、学歴は必要な情報かという話。

安倍元総理は成蹊大学、菅元総理は法政大学。あの田中角栄は尋常高等小学校卒業で、日本トップの大学を卒業していなくても総理になれるわけである。

 

つまるところ、こういう話は、複数の選択肢があって甲乙つけがたい時の最後の判断要素として使用されるに過ぎないものである。

政治家を選ぶときに真っ先に重視するべきは「有権者のために何をやってくれるか」であって、ネームバリューでもなければ、学歴でもないのである。

 

確かに、嘘をついたということで、政治家に必要な「誠実さに欠ける」と言われればそうかもしれないが、この程度の詐称で少なくない税金を使って選挙するのかという話を天秤にかける必要があると思う。

田久保市長が仕事をしない首長であるならともかく、しっかり伊東市の政治を前に進めてくれている方なら、任期を勤め上げ、仕事ぶりで返していくしかないだろう。

 

同じような話では不倫についてもそうである。政治家も芸能人と同様にイメージ商売ではあるため、これも「誠実さに欠ける」と言われればそれまでなのだが、政治家という仕事の本質ではない。

 

それなのに、この国ではそういった問題が大きく取り上げられ、辞職が求められる。

表舞台に出る人は清廉潔白でないといけない。その求められるレベルが高すぎるのではないか。

そして、一度の失敗で再起不能にまで追い込まれてしまう。

私はそんな世界に非常に息苦しさを感じてしまう。

 

失敗したら、謝罪して仕事を辞めるのではなく、その失敗を上回る成果を出すのが筋ではないか。

能力不足ではない限り、失敗を知らない新人が着任するより、失敗を取り返そうと現職に頑張ってもらう方が合理的だと思う。

(ビジネスでも、よく問題を起こした会社の社長が即刻辞任したりしているが、あれもどうなのか、ある意味無責任じゃないかと正直思う。)

 

そういう意味では、国民民主党の玉木代表が不倫疑惑で辞めなくて済んだのは良い傾向なのかもしれない。

(ただそろそろ、過去の人間関係のしがらみを捨ててでも公約の実現をしてほしいものではあるが……。)

 

さて、田久保市長はどうなのか――

 

最後に、僕が高校生の頃から好きなアーティスト、シンガーソングライター・高橋優の「素晴らしき日常」という曲の2番以降の歌詞を引用させていただいて、今回はこのあたりで筆を置く。

 

「別にいじめたくていじめていたわけじゃないけど やらなきゃ今度は僕がやられる気がしたんだ」と

泣きながら語る少年に全てを擦り付け

あげ足とりたがりのチャンネルが正義を語る

 

きっと僕らに悪意があるわけじゃないと思う

どうしたらいいのか分かんないだけ

模索しながら 傷ついて 傷つける

 

麗しき国に生まれ 育ってしまったために

どれもこれもあって当たり前の日々を生きて

完璧なものだけを欲しがっていった始末に

完璧じゃない人間を遠ざける人々

僕らが生きてることに理由なんてあってもなくてもいい

なんにしたって泣いて笑っている

あの少年も政治家も 同じこの星を

 

まだ歩くことはできるかい?

転んでも起き上がれるかい?

そこから覗いてる景色は天国でも地獄でもない先進途上国

失望することばかりでも

目を見張る価値があるもの

その通じ合っているような気がする

目の前の人を愛して ただ愛して 支え合ってゆけるなら

きっとまだ間に合うよ

 

間違いだらけでいいじゃないか

街が腐りきってていいじゃないか

そこから覗いてる景色は 天国にも地獄にも変えられるよ

 

まだ笑うことはできるかい?

まだ歩くことはできるかい?

その通じ合っているような気がする人を連れて

愛し合う人の間から生まれてきた

僕らの明日が待ってる

きっと世界は素晴らしい

選択的夫婦別姓の最適解は維新の提出法案である単純な理由

国会の場で選択的夫婦別姓制度が審議されるのは実に28年ぶりとのことです。

 

まず、私の立場を明らかにしておくと、選択的夫婦別姓制度の導入には反対です。

 

理由の1つは、生まれたときから結婚するなら夫か妻のいずれかの名字にするのが日本の決まりであると、そのように育ってきて、それが変わることに大きな抵抗を持っているからです。

 

加えて、28年ぶりの国会審議とのことですが、選択的夫婦別姓の制度を導入するにしても、あまりにも制度設計が未熟です。一時期出ていた案では子の名字は都度決定するというような話もあり、導入すれば混乱必至としか思えないというのも理由の1つです。

 

また、最後の理由、これが一番の理由ですが、どうしても選択的夫婦別姓制度が必要であると思っている人が過半数を超えているならまだしも、現状はまだマイノリティーです。

私は、マイノリティーの声を聞かなくても良いとはまったく思っていませんが、マイノリティーの声だけで何かの政策が決定されるのは非常に危険だと思いますし、それが許せないからこそ選択的夫婦別姓制度の導入には断固反対の立場です。

 

ただし、誤解していただきたくない点は、私は今の夫婦同性で改姓する側の負担軽減は急務だと考えています。

 

だからこそ、私は、自民党高市さんが主張をされ、日本維新の会が国会に提出している「旧姓を用いた通称に法的効力を持たせる」のが現状取り得る最善の解決策ではないかと考えております。

 

そう考える理由は単純です。

 

選択的夫婦別姓の推進派と反対派がいずれも譲り合う形で、改姓する側の困り事が解決されるからです。

 

推進派は、改姓する側の負担を減らすこと、それから名字がもつ個人のアイデンティティーを失わないために、夫婦別姓の制度が必要と主張されていると認識しています。

また、推進派には入らないかもしれませんが、「選択的であるなら、嫌な人は同性にすれば良いのでは?」というやや中立的な方もいらっしゃると思います。

 

私を含めた反対派は、明治以降とはいえこれまで日本に根付いており、今まで生きてきて当たり前である制度を拙速に変えてしまうことに不安を抱えています。

また、既に旧姓を通称として利用することについて運用により対応しているのだからそもそも国会で時間をかけてが不要なのではないか、男性(夫)側の名字ではなく女性(妻)側の名字にすることもできるのだから、女性側の名字にしてくれる人を探せば良いのでは、と思っている方もいらっしゃると思います。

(少し話が逸れますが立憲民主党辻元清美が加藤財務大臣を例に「加藤清美ではピンとこない」などと国会で主張していましたが、加藤大臣は婿入りしている(旧姓は室崎)ので、その話を振る相手としてまったくナンセンスだと思いました。)

 

さて、ここで今国会に野党が提出している法案を見てみましょう。

 

立憲民主党が出している案も、国民民主党が出している案も、ほぼ一緒ですが、反対派に寄り添っているとはまったく思えません。

それは、どちらも選択的夫婦別姓制度を導入する案だからです。冒頭申し上げたとおり、選択的夫婦別姓制度を導入する案は、反対派からすれば受け入れられる法案ではありません。

 

ここで、日本維新の会が提案している旧姓の通称使用に法的効力を持たせる案を見れば、反対派からすると輝いて見えるのです。

 

正直反対派の私からすると、戸籍の名前が変わってしまっても、仕事上で旧姓のまま活動できていれば、個人のアイデンティティーは保たれているじゃないかと思っています。

一方で、推進派の方が主張される「パスポートが旧姓併記だと海外のホテルで疑われる」「結婚前の論文と結婚後の論文が同じ人物の成果だと思ってもらえない」というような改姓する側の困り事、これは反対派の私としても、何とか解決してあげるべきと思うところです。

 

そこで、日本維新の会が考えたのが、旧姓を使用した氏名に戸籍法上の効力を与える、という案です。

 

これにより、旧姓を使用したい人は届け出をすれば、パスポートなどの身分証明書も旧姓のみの形で発行が可能となりますし、結婚する際の面倒な氏名変更手続きをなくせるようになります。

 

選択的夫婦別姓制度を導入せず、この困り事を解決する案、それこそが日本維新の会が提案した法律案なのです。

 

強力な推進派の方からすればアイデンティティーの問題は解決されていませんし、断固反対派の方からすれば選択的夫婦別姓制度に一歩踏み込むことになりますが、まさにお互いが歩み寄って喧嘩両成敗という形なのではないでしょうか。

 

これは、某党が掲げている「対決より解決」をまさに体現した案だと思います。(残念なことに某党と日本維新の会は違う党ですが……。)

 

そういう意味で、この選択的夫婦別姓制度の導入に関する議論における現状の最適解は、ずばり日本維新の会だと私は思っております。

 

維新の案で一歩踏み込んでみて、足りないところは引き続き議論を重ねれば良いのではないでしょうか。

 

これを読んで、共感してくださる人がいらっしゃれば幸いです。それでは。

国民民主党はずるい、日本維新の会はアピールが下手くそ

とあるショート動画を観ました。

 

そのコメント欄が地獄だったので、多くの方の誤った理解を正したいと思い書いています。

 

ショート動画はこちらです。

国民民主党森洋介議員に対して日本維新の会の青柳仁志議員が答弁している動画です。

https://youtube.com/shorts/yJj4IP17OCo?si=aiiOHUBxOv-oeiPU

 

コメント欄では、森議員を持ち上げて青柳議員や自民党を叩くコメントばかり散見されます。

確かに、青柳議員の受け答えが誤解を産む元になっているとは思いますが、ぜひとも有権者のみなさまには真実を知ってほしいのです。

 

ここで、両党の献金に関するページを見ていただければと思います。

 

日本維新の会はこちら。

https://o-ishin.jp/about/donation/

 

国民民主党はこちら。

https://new-kokumin.jp/support/donation

 

見て気付かれた方もいらっしゃるかもしれません。

 

そうです、日本維新の会は企業・団体からの献金を受け取らない(個人献金のみ)としている一方、国民民主党は企業・団体からの献金(URL先法人献金と書いてありますが)も受け付けているのです。

 

つまり、日本維新の会としては企業・団体からの献金を全面禁止しても痛くも痒くもないのです。

 

日本維新の会は、他党が受け入れることのできない完全禁止の案を提案することもできますが、大半の党が受け入れてくれないため、現実的に制限する案を提案しているということです。

 

それにもかかわらず、国民民主党の森議員は維新の案にケチをつけているんです。あたかも自分たちは清廉潔白だと、抜け穴があるから賛成できないんだと言わんばかりです。

 

日本維新の会からすれば、「いやいや、全面禁止にしてもええんですよ?」であって、恐らく国民民主党自民党立憲民主党と同様にその案は呑めないでしょう。

それなのに、日本維新の会が悪いかのような印象操作をするショート動画だとしか思えません。

青柳議員の受け答えもまずいとは思いますが、正直、青柳議員もはらわた煮え繰り返ってしまったからこそ、あのような答弁になってしまったのではと心中察するところです。「何を自分の党はできないことを棚上げにしてぬけぬけと。全面禁止にしてやろうか」という感じでしょう。

 

正直、日本維新の会はアホです。

 

日本維新の会は、

  • 企業・団体からの献金も受け取っていない
  • 調査研究広報滞在費(旧文通費)もすべて領収書をホームページで公開
  • 議員の給料もカット

というように、身を切る改革をしつつ、既得権益や企業・団体に忖度しなくても良い立場で、自らが正しいと信じる政策を実現しようと頑張る党なのです。

 

それなのに、国民へのアピールをしないんです。というか伝わっていないんです。アピールが下手くそなんです。

頑張ってるのにアピール下手くそで、国民に趣旨が理解されていないんですよね。

 

これを読んで、少しは日本維新の会の株が上がればと思いますが……まあ大半の有権者の方は「基礎控除引き上げとガソリン暫定税率廃止を邪魔した党だ!」と思考停止で理解していただけないんでしょうけども。

 

あんまり国民民主党を盲信してほしくないですよね。政策など、言ってる方向性は間違ってないとは思いますが、最近「民主党しぐさ」が目立つような気がしています。

以下の記事のように結局立憲民主党と同じで連合がバックにいますからね。そこと縁が切れない限り国民民主党立憲民主党と同じ穴の狢にしか見えません。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240920/k10014587661000.html

 

それでも国民民主党を支持するということであれば、仕方ありませんが、どうかこれを読んでいただいた方には、メディアや切り抜き動画だけを信じるのではなく、自分でしっかり考えて、良い日本に導いてくれると思う党・候補者を支持していただきたいです。

VARのルール、おかしくないか?

2024年5月3日(金)、明治安田J1リーグ FC東京京都サンガFCの試合。

 

現地観戦していたが、VARのルールでおかしくないか?と思う瞬間に出会ったので記事にしておきたい。

(贔屓のチームが関わってるので余計にそう思うのだとは自覚しつつも、あまりにもおかしいぞ、と感じたこの思いをどこかに発散させたいのである。)

 

本題に入る前に、1つ記事を紹介したい。2024年シーズンにおけるVARの運用についてのゲキサカの記事(以下URL)だ。

https://web.gekisaka.jp/news/jleague/detail/?401097-401097-fl

 

この中で、PKの判定に対してVARが介入し、PKが取り消された際のプレー再開の方法について、以下のような運用とするとされている。

 

2つ目は主審がPKの判定を下した後、VARオンリーレビューまたはオンフィールドレビュー(OFR)によりPKを取り消しされた場合の再開方法について。PK判定がなされた時点でボールが外に出た場合、これまではゴールキックやCKでの再開だったが、VARチェックはPKの可能性に対して行われる原則のため、「PK」→「OFR」→「PKをキャンセル」という流れでプレーが再開される時は、「ドロップボール」での再開となるという。

佐藤氏は「VARが使用するプロトコルにはこのようなケースは書いていない。それはレフェリーが間違えたという前提をルールに作っていないから。そのため笛を吹いたときにボールが外に出ていたらCKから再開しようというリーグもある」と補足説明。その上で「われわれが競技規則に基づいて立ち返ると、その根拠はVARのチェックはポッシブルPK(PKの可能性)に対して行っているということで理解したい」とドロップボールとする理由を述べた。

 

なるほど、どうしてこのような運用にするのかは理解できなかったが、とりあえず「PKがVARによって取り消された場合のプレー再開は、ドロップボールとします!」ということだけは理解できた。

(ちなみに恥ずかしながら、筆者は現地観戦している時にこのような運用がされていることを知らなかったので、この後に書くシーンでえらく憤慨した。)

 

この記事を踏まえたうえで、FC東京京都サンガFCの後半アディショナルタイム+1分の出来事を見てみたい。

 

右サイドを攻め込んだ京都・原選手のクロスに飛び込んだのは京都・平賀選手。しかし、FC東京・森重選手の身体を張ったディフェンスに防がれ、ボールはゴールラインを割ってしまうが、京都の選手は森重選手のハンド(PK)をアピール。

 

アピールの結果(?)、岡部主審はハンドの反則を取り、PKという判定を下した。京都からすれば、試合終了間際、同点を狙える千載一遇のチャンスである。

 

しかし、直後にVARが介入。ハンドの判定に対して、異議を申し立てたのである。すぐさま岡部主審がOFRへと向かう。

 

OFRの結果、PK取り消し。正直なところ、千載一遇のチャンスが消えてしまい残念ではあったが、森重選手は手を不自然に広げていたわけではなく、仮に手がなくても身体に当たっていたと思われるので、その判定自体に異議はなかった。

(過去、似たようなプレーで京都の選手はハンド(PK)を取られていたような記憶が蘇り掛けたが、それはまた別の話。)

 

さあでは森重選手に当たってゴールラインを割ったのだから、まだCKのチャンスだ、と京都・鈴木冬一選手がコーナーアークにボールをセットしようとする。

 

しかし、ここで冒頭に紹介した記事を思い出さなければいけない。

「PKがVARによって取り消された場合のプレー再開は、ドロップボールとします!」ということだ。

まさに今回もその好例というわけである。

 

正直、ピッチ上の選手もどれくらい理解していたのだろうか。

(ドロップボールによる再開をあの判定を下した瞬間に指示できる審判、ああ、恐ろしき。)

 

現地観戦してた筆者は恥ずかしながらそのことを把握していなかったので「ドロップボール?なんでやねん!ふざけるな!!」状態。なぜなら、ハンドの笛が吹かれたのはあくまでボールがゴールラインを割った後で、プレーは切れているのだから。

百歩、いや二百歩譲って、ボールがゴールラインを割っていない時点で笛を吹かれたのであれば、FC東京の選手も足が止まるので、「僕たちは頑張ればタッチラインに逃れられたんです!」という主張を見越してドロップボールでのスタートも納得できるが。

 

京都のベンチも、恐らく運用を理解できていなかったのか、猛抗議。ドロップボールで再開されたものの、猛抗議に一度プレーが中断し、京都・西方コーチにイエローカードが提示され、ドロップボールでの再開をやり直すという何とも珍しい展開に。

 

試合はそのまま、2-1でFC東京が勝利。

ちなみにPK取り消しの後、試合終了間際にFC東京の選手に接触によるイエローカードが提示されるも、なぜか京都側のオフサイドを取られ、FC東京ボールのFKとなる判定もあり(試合後DAZNでリプレーを見たがピッチの全体像が映っていないのでそもそもどこに対するオフサイドなのかも判断がつかなかった)、現地で観戦していた筆者としては何とも後味の悪い試合となった。

 

筆者の思いの丈を綴る記事なので、言いたいことはそれだけかと思われるだろうが、結局のところ、

  • なんでプレー切れてからの笛で、一連の流れに反則がないことが確認できたのに、プレーの再開は反則があったと誤認した地点からしないといけないの?

ということである。普通に運用としておかしくないか?

 

何度も言うが、確かにボールがゴールラインタッチラインを割る前に笛が吹かれたならドロップボールでの再開はわかる。

だが、完全にプレーが一度切れた状態(今回であれば、笛が吹かれなければCKとなっている状態)で、吹いた「審判の誤りの」笛であるならば、普通は一度切れた状態で再開させるのが自然じゃないか?

 

え、もしかしてこの再開の方法って、ハンドでもないプレーにアピールをした選手に対する懲罰的措置ってことか?審判を欺くシミュレーションみたいな??そんなことある???

京都の選手がアピールしなければよかったのか?いやアピールしなかったら主審は笛を吹かなかったのか??笛を吹かずにVARが介入してPKなしだった場合はCKになるの???

 

あと、なんで審判は悪びれる様子もなく無情な再開の方法を機械的に指示できるんだ?京都のCKはどうせ点が入らないからチャンスでもなんでもないだろってこと??この試合の京都の1点はCKからの1点なんだが???

 

「われわれが競技規則に基づいて立ち返ると、その根拠はVARのチェックはポッシブルPK(PKの可能性)に対して行っているということで理解したい」

 

先ほどの記事の、ちょっとここの解釈がわからない。

競技規則に根拠がないなら場合分けして競技規則に追加すれば良いのでは?もしくは違和感を抱かざるを得ない競技規則は改正するべきではないのか??

 

はっきり言って、「ルールだから」の一言で片付けてほしくない。違和感ありありなルールである。

(もし今回の事例がワールドカップのような世界大会で起きたらプレーの再開はどう判断されるのか??)

 

贔屓のチームに起こったことだから余計にそう思ってしまうのだと言われるかもしれないが、サッカーしたことがある人なら、普通に考えればおかしいと思わないだろうか。

ぜひ、このルールの見直しについて、議論を重ねて欲しいものだ。

 

余談。

前説のヴィッセル神戸京都サンガFCの試合でも、VARが話題となった。

https://news.yahoo.co.jp/articles/5e67862d0cf415e9a398a0c2b1f9bf82fa6d4ea8

 

この試合では京都はVARに助けられた形となった(PKをGKのクソンユンがスーパーセーブしてくれたお陰な)のだが、正直言うと、あれだけ微妙ならもうゴールで良いのではと思う。

VARの哲学は「最小限の干渉で最大の利益を得る」とのことだが、あの試合のVARは果たしてその役割を果たせていたのか?

そもそも松田選手のハンドもガッツリ手に当たってはいるが一連の流れなので微妙すぎて、オフサイド判定が微妙だから(神戸・宮代選手が触ってるか怪しいから?)帳尻を合わせられたようにも思えた。

救われた側なのであまり大きな声で言いづらいが、そもそもオフサイドの反則にあそこまでの精密性が要るのかよくわからないし、U23日本代表の試合でも思ったが、ハンドの反則って一体何なんだろう、、とVARが導入されてからサッカーの判定について思うことが増えた。

(ちなみに野球のリプレー検証の場合、明確に誤りとわからなければ原則最初に下した判定が優先されるので、判断に時間がかかった時点で最初の判定を維持すれば良いのにと思う。)

 

P.S.

試合後、FC東京の勝利に関する記事ばかりだったが、1つだけ、この判定に関する記事を見つけられたので、ほんのちょっとだけ、救われた。

 

https://news.yahoo.co.jp/articles/b8606e7c7cd55c87b263990d9d8c7dda1e1ab815

 

あと、京都サンガFCの選手たち(特に守備面)、

今日みたいな腑抜けた守備をして、ファンの期待を裏切らないでくれ、、

せっかく現地で応援してるのに、あんな軽い守備で開始早々点を取られてたら、応援する気もなくなってしまうって、、

毎試合90分ハードワークをしていて疲労は溜まるんだろうけれど、プロサッカー選手の集まりだと思っているからこそファンとしてはもっと高いレベルのプレーを期待するわけで、この前の神戸戦や今日の後半のような戦いを見せ続けて欲しい、、(偉そうで申し訳ないが、、)

ゴミのような気持ちです

本当に最近は新型コロナウイルスのせいで毎日ゴミのような気持ちで生きている次第であります。

 

今、日本の方針として、新型コロナウイルスに対してどのような接し方(生活様式)が求められているのでしょうか?

 

それは、新型コロナウイルスと共存していく生活(所謂「with コロナ」)だと思います(だからこそ某キャンペーンも前倒しにされたのだと思います)。

 

そもそも緊急事態宣言はなぜ出されたかというと、「感染のピークを抑えるため」でした。新型コロナウイルスに感染した人のうち「入院治療が必要な人数が医療機関のキャパシティを越えないよう」にあの日々を我々は過ごしてきたわけです。

 

まず、ここをきちんと理解していただきたい。決して、パンデミックを終焉させるためではない、ということです(もちろん、延長にパンデミックの終焉という目的があったとは思いますが、治療薬がなくて感染力の強い感染症によるパンデミックをそう簡単に終わらせることができるとは私は思いません)。

 

さて、上記の観点に立つと、マスコミはただ「感染者数」という少しばかりずれた数字に注目して毎日毎日報道を繰り返しております。

 

本来医療のキャパシティについて分析するには「空き病床数」や「入院治療を要する者」といった数字に着目すれば良いものを、なぜか「感染者数」に真っ先に注目しておられます。なぜでしょうか?ぜひどういう意図であの報道をしているのかご教示願いたいものです。

 

(まあ、感染者数の中身の細かい数字を追うのが大変なんでしょうね、マスコミの方々はお忙しいようなので。)

 

話が逸れました。つまり我々が今気にしなければならないのは「入院治療が必要になったとき、治療を受けられる医療機関が存在しているか」であって、「今の感染者数を見て外出を自粛するかどうか」ではないと思います。

 

だって、毎日のように満員電車に乗って仕事に行かなければならない日常に戻っているのですから。私自身既に感染していても不思議ではありません。

 

(だからこそ「休日は自粛しろ」という方々もおられるかもしれませんが、普通にそんな奴隷のような生活は私は嫌です。仕事のためだけに生きるのが美しい時代ではありません。)

 

また政府が「緊急事態宣言を出す状態にない」と言っている以上、まだ医療機関のキャパシティは大丈夫だということなのではないでしょうか。

 

であれば、経済は弱り、ストレスは溜まる自粛生活より、上手くコロナと付き合っていく(with コロナ)の生活の方が良くないですか?必要以上に新型コロナウイルスを怖がっててどうするんですか?

 

某キャンペーンも、前倒しにして大々的にやってくれたというのに、批判批判の嵐で萎えました。せっかく政府が感染拡大の責任を背負おうとしてくれてるのに、なぜ国民である我々が自由を自ら制限していこうとするのですか?(同じことは、緊急事態宣言下に「私権の制限を行え」という声にも思いましたが……。)

 

自分で責任を取りたがらないのか、何も考えずに生きているのかわかりませんが、どマゾの国民が多くて、うんざりしますね。

 

国の方針に従わない自由はあると思いますが、周りの国民を巻き込まないで欲しいものです。

 

本当に生き辛い世の中だとつくづく思います。変わって欲しいなあ、世間。。。

 

言いたいことが多すぎて滅茶苦茶な文章でどうもすみません。それでは。

PCR検査の実施体制は拡充すべきなのか?

今日はPCR検査について思っていることをひとつ。

 

(私は医療の専門家でも何でもないですが、現段階で知り得た情報を元に話を組み立てています。そのため、一素人の勝手な意見だと思ってお読みください。また、もし間違い等がございましたらご指摘いただけると幸いに存じます)

 

もっとPCR検査をしろと言って怒っている人があまりにも多い。それも専門家、素人問わず。

 

なぜそこまで検査しろと言うのか、私は理解ができませんでした。

 

だって、新型コロナウイルスに対する治療法は確立されていないのです(現状は対症療法しか存在しない)。つまり、病名が確定したところで必ずお医者さんが助けてくれる保障はないのです。そんな病名をわざわざ確定させたところで、何の意味があるのか。

 

また自力で病院に行ける程度の症状であるならば、入院させてもらえたとしても、最近有効かもしれないとされるアビガンやレムデシビルといった薬の投与もされないはずです(副作用の詳細が判明しておらず危険性が高いため)。得られるのは、医者がすぐに来てくれるというだけの生命の保障がない安心感だけです(個人的にはそのためだけに医療従事者の方々のキャパシティーを奪うのは嫌です)。

 

入院して対症療法しかできないのであれば、下手に病院に行って体力を減らすよりも自宅で大人しく療養した方が治りそうな気もします。

 

新型コロナウイルスに感染して退院した人も多く不治の病ではないですが、入院しようがしまいが、もはや今は自分の免疫力を信じるしかないのです。

 

さらに、PCR検査の精度は100%には遠く及びません(そのため退院には2回の陰性を必要としているのだと思います。それでも陽性患者が見逃される可能性はあると思いますが)。実際陰性という結果が出た方が亡くなられた後に陽性が判明するというニュースも耳にしました。

 

これを逆に言うと、偽陽性によって感染していないのに新型コロナウイルスが蔓延している病棟に送り込まれる可能性だってあるわけです。

 

それであるならば、わざわざ新型コロナウイルスに感染しているかどうか調べにいくのが馬鹿らしいと思ってしまいます(普通の風邪なのに、それで免疫が落ちた状態で検査を受けるために病院等に行き新型コロナウイルスをもらう可能性だってありますし)。

 

また、「これは新型コロナウイルスだろう」と思って陰性という結果が出たならば、それで安心して家に帰れるのでしょうか。それで症状が治まれば平然と街を出歩けるのでしょうか。決して偽陰性でないという保障はありません。

 

(PCR検査の偽陰性偽陽性について参考)

https://www.gohongi-clinic.com/k_blog/3873/#PCR

 

他にも「感染拡大を防ぐために」という理由でPCR検査を増やせと主張する方がおられますが、この理屈も私は懐疑的です。

 

無症状の人は(普通は)検査を受けようとしないため、仮にその人が新型コロナウイルスに感染していたとしても行動を制限することはできません。つまりウイルスの拡散が止められないことを意味します(だから自粛要請が出されていると思うのですが)。

 

風邪症状のある人(軽症者)は先ほどの理由でわざわざ病院に行くことが逆に感染リスクを高めます。

 

自力で動けない人(重症者)はもはや救急車で運ばれるしかないので、他人に感染を広げるとすれば家族ないしは医療従事者です。これは自粛が徹底されても防げない部分です。

 

また(あり得ない話ですが)国民全員がPCR検査を受けれたとしても、偽陰性偽陽性の可能性が少なくないのならば、これも感染リスクを減らすことにはつながらないと考えます。逆に人の動きを増やすことにもつながります。

 

(他にも、検査する人たちの安全が担保されていないのではないかという疑念もありましたが)大きくこれらの理由から、なぜそこまで検査を受けたがるのか、検査体制を拡充させたがるのか理解ができませんでした。

 

ただ、1つだけ検査数を増やせという理由で納得できるものがありました。

 

それは、新型コロナウイルスの流行がひとまず終息しているかどうかを調べるため、というものです。

 

100%の精度ではないといえ、検査数が一定であるならば、前日までの感染者数と比較すれば感染拡大が広がっているのか収まっているのかは判断できます。

 

しかし、陽性者数が減っていても検査数とあまり変わらない数いる状態、つまり陽性率が高い状態というのは、単純に検査数が足りていないから陽性者が減っている(ように見える)だけと考えられます。

 

そのため、緊急事態宣言を適切に解除するためには検査数を増やした上で陽性者数を見ないといけないのです。

 

この理由は納得できましたし、今は検査体制を拡充する必要があるとは思っています。

 

しかし、未だに疑問なのは、PCR検査が受けられていれば重症化しなかったはずだ!だから検査を実施数を増やすべきだ!という主張です。

 

これは本当に正しいと思いますか?治療法がないというのにどうやって重症化するのを防げると思うのですか??

 

医者は神様ではありません。医療は進歩しているとはいえ何でも治せるわけではありませんし、医療関係者の方々は日々救えなかった患者にも頭を悩ませているはずです。

 

だからこそ「検査をしろ!」と必要以上に医療現場にプレッシャーをかけるのではなく、ぜひとも冷静な頭で判断していただきたいと思います。

 

私たち素人が医療現場に対してできるのは文句を言うことではなく、自分の身体を強くして、なるべく外出しないようにして感染リスクを減らすことです。

 

ほとんど最後の数文が言いたいことの本質だった気がしますが、改めて書き終えるとなんだかスッキリしました。それではこの辺りで失礼します。

人工妊娠中絶は何がまずいのか

テレビなどにも出演している超優秀な某大生が中絶させた云々の話が少し前ポッと出てましたよね(あんまり話題になってないように思えましたが)。

 

そもそも、中絶は何が問題なんでしょうか。

 

個人的には、胎児の命を奪ってしまうといった倫理的な問題はほぼないと考えています。

 

それは、胎児の頃に自我があるかというと、そんな人はほぼ皆無だと思うからです。

 

僕は母のお腹の中にいたときの記憶はありません(あるかもしれませんが、思い出せません)。もしその時に仮に母が中絶していたとしても、僕自身に自我も何もなければこの世に存在したかどうかもわからずに一生を終えていたでしょう。

 

そこに人権だの倫理だのを考えようとするのは、いささか過剰のようにも思えてしまいます※1。

 

また、出生前診断ダウン症などと診断された場合にも、親は中絶するかどうか医師に問われます。障害があることがわかっているなら、それを回避する選択も可能だということですね。

 

最近よく「親の都合で産んだのだから子供の責任をもつのは当然」という言葉を聞くのですが※2、そんなことを言われるなら「親の都合で堕ろす」というのも正当化されないといけないと不公平だと思います。

 

立派に障害をもつお子さんを育てている親御さんもおられますが、やはり苦労も多く、親が亡くなった後はきょうだいが面倒を見なくてはならず、婚約が破談したりして人生がめちゃくちゃになったという話も残念ながら聞いたことがあります。

 

そんな中で「倫理的に反してるから」と第三者が口を挟んで選択を強制させることは良くないと思います。

 

以上の理由から、倫理的には問題はないのではないかというのが僕の立場です。

 

ですが、中絶の是非を問うポイントというのは別のところにもあります。

 

それは何より、母体である女性の身体的・精神的負担です。

 

中絶がどのようにして行われるかは次に示すリンクをご覧ください。

人工妊娠中絶について教えてください。 – 日本産婦人科医会

 

これを読めば、健康なはずの母体に本来かけなくてもよい身体的負担をかけなければいけないことがわかります。場合によっては次の妊娠に悪影響も与えかねないとも聞くので、とてもそれを良いとは思えません。

 

また、倫理的な問題に戻ってしまうかもしれませんが、中絶を受けなければその授かった命は生まれてくるわけですから、女性が人ひとりを殺めてしまったという感情を抱かないとも限りません※3。これは、かなりの精神的ダメージになり得ます。

 

短いですが以上の理由で、軽率に中絶をしてはならないのだと僕は考えます。

 

きちんと避妊をして望まない妊娠を防ぐのはもちろんですが、不幸にも中絶を選ばなくて良いように祈るしかないなと思いました。

 

それでは。

 

※1中には胎児の頃の記憶があるという人もいるらしいので、言いきってしまうのは乱暴だと考える。

 

※2某省の元事務次官の息子も似たようなことをTwitterで申していた気がする。

 

※3もちろん、そんな気持ちを抱く必要はないと僕は考えるが、優しすぎるが故にそういう気持ちになる人もいるだろう。