「死にたいなら一人で死ね」に異議を唱えられた時のモヤモヤ

久しぶりの投稿になります。眠れなくなってAppleの発表が行われてるのを横目に見ながら書いてます。

 

さっそく本題です。

 

川崎市で起きた某殺人自殺事件で「『死にたいなら一人で死ね』という発言は止めてくれ」というのが話題になりました。

 

僕はこれ賛同できなくもないんですけどなんかモヤモヤするんですよね。

 

「他人に迷惑をかけない」という観点からすれば周りを巻き込んで死ぬよりは一人でひっそりと死ぬ方が正しいと思います(一人で死ぬのも他人に迷惑がかかるというのは置いといて)。

 

「死にたいなら一人で死ね」っていうのは僕が思うに鋭すぎる正論のように感じます。間違ったことは言ってないと(僕は)思います。本質だけを抜き取れば「できるだけ人様に迷惑をかけるな」ですから。

 

別に「死を選択肢に入れようかどうか」という人に「死ね」と言ってるわけじゃなく、「死を選択した」人に「一人でお願い」と言ってるわけなのでその人の死を願っているわけではないことは読解力があればわかります※1。

 

ただ「死ね」というフレーズが入ってるから問題視されたのであって、これが生と死の選択に悩んでる人を刺激するのではないかと、その結果同じような事件が起こってしまうのではないかという反発が生まれたんだと思います。

 

それは十分に理解できるんです※2。

 

でも、あまりにも馴染まない。

 

今の社会※3って殺伐としてるじゃないですか。店員さんに高圧的な態度を取る人はいるし、何か気に入らないことが起こればすぐにハラスメント案件になるし、車に乗れば煽り煽られのバトルになるし、幼稚園・保育園の子供の声や小学校の運動会の音がうるさいと苦情はくるし、公務員の給料が高いと他人に不幸を強いらないと気が済まない人はいるし。枚挙に暇がない。

 

かくいう僕も例に漏れず棘のある思考や発言をすることはよくあります(この記事もそうなのかもしれない)。

 

そんな社会の中で、明らかに犯人側に非があるのにそちらの肩を持つような発言をすれば批判が殺到して当然です。正論を取り下げろと言っているのですから。

 

すぐ隣にいる人に優しくできないのに、どうして顔も知らない希死念慮を抱えた人に優しくできるんでしょうか。あまりにも上滑りして聞こえてしまうんですね。

 

そもそも自殺願望が生まれる前にも優しくしてやれよとも思いますし。

 

「『死にたいなら一人で死ね』は言わないで欲しい」というのはあまりに今の社会にとって優しすぎる。これが違和感を覚えた理由の1つだと思います。

 

また、某殺人自殺事件でやってることは自爆テロと同じです。

 

直接の罪もない人を巻き込んで自分も死ぬというのは、最近はイスラム過激派に多い自爆テロそのものだと思います。

 

川崎の事件の動機は明らかにはなっていませんが、恐らく社会に対する恨みが引き金になっていると思われ、その点でも自爆テロと何ら変わらない行為です。

 

もし、「死にたいなら一人で死ね」反対派の人がこうした自爆テロの実行犯に対しても同じ姿勢を貫けるのなら納得はいくんですが、果たしてどうなのでしょう。

 

以上が僕のモヤモヤの原因かと思います。

 

もし同じようなモヤモヤを抱えている人がいればこれを読んで少しでもスッキリしてもらえたら幸いです。

 

最後に。

 

社会、もっと優しくなれると良いんですが。

 

まあこう言っている僕が優しくない思考・発言をしてこんな記事を書いている時点で無理かもしれないですね(笑)

 

 

 

今回はこれで。

 

※1精神的に追い詰められている人は誤解するかもしれないことは理解している。

 

※2でも自殺願望のある人ってそんな他人を殺すバイタリティに溢れているのだろうかとも思うし、生と死に迷う人よりか社会に恨みのある人を刺激しないようにという話なのかもしれない。

 

※3「今の」社会と言っているが、「昔の」社会がどうであったかは知る由がないので、少なくても今はそうだろうという意図であり、昔の社会が良かったという類の主張ではないことを断っておく。

心神耗弱と刑事責任能力

お久しぶりです。

 

今回は刑事責任能力のない罪人が無罪になることと、鉄道への飛び込み自殺を同時に議論したいと思います。

 

まず、前者について。

 

刑法第39条は次のようなものです。

  1. 心神喪失者の行為は、罰しない。
  2. 心神耗弱者の行為は、その刑を減軽する。

 

よく「刑事責任能力」とか言いますけど、ざっくり言うとそれがない人は無罪になったり、減刑対象になったりするよという条文のようです。

 

これ、納得いかないんですよね。

 

刑事責任能力の有無であったり、その診断結果を受けて無罪にするかはすべて医師や裁判官の匙加減なわけです(もちろん一定の基準はあると思いますが)。

 

さらに言わせてもらえば、じゃあ刑事責任能力があればその罪人は同じ罪を犯さなかったのかと。

 

一般に犯罪者は刑事責任能力があり、有罪になれば刑罰が下されるわけです。また、精神病を患っており刑事責任能力がないと診断される可能性のある方でも罪を犯さずに生きておられる方もいるわけです。

 

余談ですが、刑法第40条はかつて聴覚障害者は刑事責任能力がないから無罪にするというような内容だったらしいです(驚きですね)。当然、聴覚障害者団体からの「差別につながる」といった抗議により現在は削除されています。

 

加害者の人権を保護するためなのか知らないですけど、被害者の人権はどうなるんだ?と常々思っています(刑事責任能力を失った原因が被害者ならわかりますが)。

 

これと鉄道を使って自殺することの何が関係するのかと思われるかもしれませんが、少しお付き合いください。

 

鉄道の運行を妨げるのは立派な犯罪行為です。置き石や立ち入りなど、安全を脅かす行為をすれば罰せられたり、損害を与えた鉄道会社から賠償金を要求されたりすることでしょう。

 

では、列車への飛び込みはどうでしょう。

 

当然、列車は急ブレーキをかけます。車内に立って乗っている人は転倒する危険も生じます。具体的なソースはありませんが、おそらくほぼ100%死亡するでしょうし運転手の方は精神的ダメージを受けます。事故処理もありますから処理が終わるまで運行は止まりますし、直接処理にあたる方にも精神的な苦痛があると思います。

 

もちろん、自殺するほど苦しんだその方には同情しますが、鉄道をその手段に選ぶなら話は変わると思うんです。これ、自殺とはいえ結構な犯罪行為だと思いませんか?ある意味自爆テロまがいの行為ですよ。

 

それなのに、鉄道に飛び込んで自殺した方を責める意見に対して擁護する意見ってあるじゃないですか。人が死んでるのに冷たいとか。すみませんその気持ち僕はわからないです(鉄道会社に文句を言う人の気持ちもわからないですけど)。

 

僕の意見は、そもそも自殺して欲しくないし、鉄道や不特定多数の人間に恨みがあるのでなければ他の自殺方法を選んで欲しい。

 

少し話が反れましたがこの構図、刑法第39条と同じじゃないですか。心神耗弱しているからこうした行為を許せ、と。

 

本当に許して良いんですかね。犯罪によって受けた心の傷を被害者本人や遺族はどう解決させれば良いんでしょうか。ただでさえ有罪判決を受けた遺族も「罪が軽すぎる」と仰るのに。

 

鉄道自殺の方も、死ねば多大な人に迷惑をかけて良いわけでもないでしょうに。その論理なら自爆テロも容認することもできると思います。

 

心神耗弱してるから許すなんてあまりに上から目線過ぎて差別助長してますよね。心神耗弱しても強く生きてる方はたくさんいるのに。

 

わからないです、最近の人権保護は。

 

なんかうまくまとまりませんでしたが、京阪の守口市で2日連続で人身事故が起きて身内が駆り出されるのを見て感じたことを書いてみました。

 

それでは。

掛け算の順序問題

あけましておめでとうございます。

 

新年一発目は度々話題に上ってくる「小学校での計算式の順序問題」についてです。

 

さて、突然ですがみなさんは次のような問題を出されたときどういう計算式を立てますか?

 

6本で1セットの鉛筆が売られています。

3セット買うと全部で鉛筆は何本手に入りますか。

 

小学校を卒業していなくてもわかるレベルの問題ですね(「漢字が読めないだろ!」とかいうツッコミはナシでお願いします)。

 

答えは18本ですよね。では、これをどうやって考えたのか。

 

恐らく多くの人が「6×3=18」のように考えると思います。また別解として「6+6+6=18」とも考えることができます(後者は掛け算の定義を展開したような形、すなわち掛け算という演算の元になったような形だと僕は思います)。

 

では「3×6=18」はどうでしょう。最初の式と同じく掛け算を利用した立式です。自然数の掛け算ですので交換法則が成り立ちますから計算結果は当然求めるものと一致します。

 

代表的な考え方はこれくらいではないでしょうか。もちろん、僕の発想が乏しいだけで他の立式も考えられるのかもしれませんが(セットの概念を取っ払って1を18回足すとか)、今回はこの3つに注目して話を進めます。

 

どれも同じ値を導くので、所望の値を得るというタスクに対しては適切な立式だと思います。しかし、小学校では最後の式がよく減点対象になっています。ここが、議論のポイントな訳です。

 

僕は、減点までする必要はないと思います。ですが、最後の立式にケチをつけたくなる気持ちもわかります。

 

2つ目の立式のところで少し触れましたが、掛け算の発想の根底には足し算があるように思います。

 

掛け算は「1単位にいくつかの"もの"(上の問題では1セットに鉛筆6本)があり、その単位がいくつあるか(上の問題では3セット)、その結果として"もの"がいくつになるか(上の問題では鉛筆18本)」という演算をすばやく行うために定義されたと僕は思います。繰り返しの煩雑な足し算を別の演算で簡単に計算できるようにしたのだと。

 

僕が勝手に思っているだけなので本当かどうかわかりませんが、もし掛け算がこういう思考のもと生まれた計算であるとするならば、思考のプロセスを左から順に書く横書きに投影するのに自然な式の書き方は「6×3」になると思います。「3×6」であれば1セットに鉛筆3本で、それが6セットあるように捉えられかねません。

 

ですが、先に頭の中で思考が進んですばやくそれを式にすると、後に出てきた「3」という数字を先に書いてしまう気持ちもわかります。僕も今まで受けたテストで幾度となくそのような立式をしてきました。

 

※余談ですが上の問題に対して「6×3」は「キューのような立式」、「3×6」は「スタックのような立式」とも見れますね。キューとスタックはデータ構造のひとつです。今回の話から逸れすぎるのでここで説明はしませんが、知らない方は調べてみてください。

 

小学校で掛け算を習う時期というのは、先程の「掛け算のもとになった考え方」も含めて身に付ける必要があると思います。それが理由で「3×6」型の立式は減点対象になるのだと思います。きちんと考え方を理解しているかが式に表れていないとみなされて。

 

でも、減点までする必要はありません。「6×3」と書いて欲しいところに「3×6」と書くことは必ずしも考え方を理解していないことを意味していないからです。きちんと考え方がわかってるか、コメントを書いたり質問したりしてフォローしてやれば良いのです。

 

以上が「掛け算の順序問題」に対する僕の見解ですが、記事はもう少し続きます。よければ続きを読んでやってください(なぜ掛け算が上のように考えるべきなのかも書いてあるので)。

 

さて今度は長方形の面積公式に注目してみると、(縦の辺の長さ)×(横の辺の長さ)という主観的な計算の順序づけがされていることが多いと思います。縦と横なんて配置の仕方や見る方向で変更可能ですし意味のない順序づけです。

 

こんな馬鹿げた順序づけが為されているのは、恐らく考え方の理解を確認するのが難しいからだと思います。だったら出題するなという話になりますが、長方形の面積にも掛け算の考え方が利用できると知って欲しい出題者の気持ちもわかります。

 

これも順序通りに式を立てていないがために減点されたというツイートを散見します。恐らく掛け算の考え方をわかってないと判断されたのでしょう。まあ小学校の先生は多忙ですから採点なんて機械的にこなすしかないのでしょうから仕方ないのかもしれません。

 

これらの問題に対して、以下の解決策が考えられます。

 

  1. 長方形の面積など、考え方を確認しづらい問題はより高学年の違う単元に回す
  2. 立式に単位を書かせる

 

1についてですが、どの問題をどこの単元に回すのかを考えるのが手間で、考え方を理解しているかの確認で減点されたり、採点後のアフターフォローが教師の負担になるので、僕は2が良いと思います。

 

では具体例を。

 

最初の問題の式に対して6[本/セット]、3[セット]と単位をつけて書くようにすれば、「3×6」「6×3」いずれの順序で立式しても掛け算した結果は18[本]となります。こうすれば掛け算の考え方を理解できているかうまく確認できますし、またこれが掛け算の考え方が先ほどのように考えるべきである理由です。この単位を用いた考え方は理科における計算など応用可能な範囲が多くあるため、小学校のうちから身に付けられれば嬉しいですよね。

 

ここで「いや長方形の面積公式は[cm]×[cm]じゃないか、掛け算の考え方が反映されてないじゃないか」という方もいると思います。ですが、これも単位の考え方を導入するから得られるものです。

 

長方形を縦に分けて面積を求めるとします。このとき、公式は「(縦[cm])×(横[cm])=(面積[cm^2])」です。どちらの辺を縦、横にするかは任意です。

 

この公式、実際は「横の長さ1[cm]の縦長のブロックが長方形の中にいくつ敷き詰められるか」という考えの下導かれています。つまり、元々この公式は例えば縦5cm、横4cmの長方形に対し「5[cm^2/ブロック]×4[ブロック]=20[cm^2]」となっているのです。

 

さて、掛け算の交換法則をご存知の方は掛け算の結合法則もご存知かと思うのですが、それを利用するとこの考え方を以下のように単純化することができます(縦、横の辺の長さをそれぞれA、Bとしています)。

 

A[cm^2/ブロック]×B[ブロック]

=A×B[(cm^2/ブロック)×ブロック]

=A×B[cm^2]

=A×B[cm×cm]

=A[cm]×B[cm]

 

長方形の面積を求める考え方が見慣れた面積公式に変形されますよね。本当はこういうプロセスがあったはずなんです。

 

まあ単位の中と外の掛け算の対応関係についてガバガバ感が否めませんが、小学校の段階であればこれで十分かと思います。

 

ただこうした解決策2にも問題があって、「そもそもこれを理解できるのか」という問題、「"/"が出てくるので先に割り算も勉強しておくべきではないか」という問題、「"^"(累乗)の記法の導入」という問題などがあります。

 

特に「理解できるのか」というのが問題です。意外と高校生でも化学の計算問題を教えているとこの単位の考え方を言われるまで気付かない子が多いんですよね。

 

でも、無理じゃないと思うんですよね。一気に教えると混乱しますが、まずは九九、そして桁の増えた掛け算、累乗という書き方、割り算、分数の書き方、それからこの単位の考え方を導入してそこではじめて文章題を解かせる形で良いと思うんです。そうすればできないことはないはずです。足し算の時にすでに単位の考え方を導入しておくとかね。

 

以上、思ったより長くなりましたが「計算順序で減点される問題」について思ったことをまとめてみました。ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。本年もよろしくお願いいたします。

 

P.S. 自然数の掛け算に対して交換法則が成り立つことはどうやったら証明できるんですかね?めっちゃ面倒臭そうですね。

プラごみの分別の話

僕の住んでいる京都市は、ビンでも色ごとに分けたりというレベルで細かくごみの分別をしなければいけないわけではありません。燃えるごみ、プラスチックごみ(燃えないごみ)、ビン・缶・ペットボトル、古紙などに分けられて回収されます。

 

僕自身、家庭ではきちんとそれぞれごみ箱を分けて設置し、ごみの分別に協力している方ではあると思います。

 

また「どこにいるか」がごみの分別基準に影響を与えることはないので、バイト先や研究室でも当然ごみの分別が要求されます。もちろんこちらも吝かではありません。

 

ただ1つ厄介なのが「プラスチック包装容器」の分別です。食品による汚れや紙製のシールが張り付いている包装なんて当たり前にありますし(多少のシールや汚れがついていても良いそうですが)、家庭から出すときはプラスチック製品自体はこの括りに入れてはいけないことになっていたり、レジ袋はここに入らなかったりと正直判断に困ります。

 

最近研究室に京都市の方から(?)廃棄物分別の徹底について通知が来ていて、このプラスチック包装容器についても指摘されているようです。しかし問題なのはその内容の一部です。

 

問題点をわかりやすく言うと「汚れが落とせない弁当容器等もプラスチックであれば燃えないごみとして出せ」という部分です。

 

これの何が問題なのか?と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、その理由は「汚れたプラごみはリサイクルできない」からです。

 

詳しくは以下のページの啓発チラシP2の資料を参考にしてください。

 

京都市:「容器包装プラスチック分別収集」Q&A

 

また紹介したページ内の資料でも確認できますが、そもそもプラ包装・容器を分別して回収しているのは大きく次のような目的があります。

 

1、焼却量を減らし二酸化炭素排出量を削減

2、焼却量を減らし可燃ごみ埋立地の容量を確保

3、石油から作られるプラスチックの再利用による限りある石油資源の保護

 

もちろんですが、この目的を達成するためにはプラスチック容器包装ごみが「リサイクルできる」状態でないといけません。「回収したは良いけど、焼却処分するしかないや」では、上記の目的は達成することができません。

 

啓発チラシをご覧になった方はお察しかもしれませんが、汚れたプラごみが混ざっているとそれ自体がリサイクルできないだけでなく、回収などの過程で汚れていないプラごみにも汚れがついてしまい、リサイクルできないプラごみを増やすことに繋がります。

 

なので正直研究室にあのような通達が来たのは驚きでした。「え?良いの??」という反応しかできませんでした。

 

仮に本当にそれで良いならこちらとしても楽で良いんですけど、結局「燃えるごみは減らんし、むしろ増えてしまった」では意味ないと思うんですよね……。

 

まあ「勝手に汚れてリサイクル不可能か判断するな」ってことなのかなあと無理矢理納得させるようにしてます。どこまで汚れててOKでどこからがダメなのかってよくわかりませんし。

 

それを仕分けしないといけない回収業者の人たちは大変そうだなあ……とつくづく思わされますね。感謝しかないです。

 

以上、ふと疑問に思ったごみの分別の話でした。

エハラマサヒロさんに対する批判から意見に一貫性を求める理由を語る

また少し投稿間隔が空いてしまいました。今回は、エハラマサヒロさんの「待望の長男」発言について僕の考えを少し。

 

まずはこの記事をどうぞ。

 

エハラマサヒロ「待望の長男」発言への批判に反論(日刊スポーツ) - Yahoo!ニュース

 

記事を読んだ感想は「は~こんなことにも噛み付く人はいるんだなあ」というものでした。

 

僕がもしありがたいことに親になれたとしたら、男の子も女の子も両方育ててみたいなあと思っています(大変さとかは置いといて)。それに、男親として「自分の子供が男の子だったら、どういう育ち方をしてどういう人生を歩むのだろう」ということは気になります。

 

なので、仮に女の子が続いて産まれたとしてやっと男の子が産まれたとしたら「待望の長男」とか「待望の男の子」とか僕も言ってしまう気がします。エハラさんのような批判を受けないためにも気をつけないといけませんね(笑)

 

これを通して僕が言いたいのは「じゃあその批判を浴びせた人は『待望の長女』発言に対しても同じように批判してくれるのだろうか」ということです。

 

多分僕は男の子が続けて産まれたとしてやっと女の子が産まれたとしたら、これまた「待望の長女」と言ってしまうと思います。もし仮に今回エハラマサヒロさんがこちらの方の発言をしていたとして、先程の批判をした方は「男の子は無価値と思っているのか」という批判を飛ばしてくださったのでしょうか。

 

飛ばしてくださるなら「ああ、この人はこの人なりの価値観をちゃんと持っているんだな」と批判を無下にすることはできなくなります。

 

ですがもし同様の批判をしないのであれば。それが何を意味するのか。

 

それを僕は「この人は自分の都合が良くなるようにだけ意見する人なんだ」受けとります。そしてその人の批判に対する信頼性は僕の中で大きく下がります。

 

だからこそ、同様の問題に対して同じ意見を持つことは大事で、僕がそれを重要視している理由はここにあります(できているかはともかく)。

 

また少し飛躍が入りますが、今回の問題に関しては批判主さまが「男女差別主義者」であるという疑いもかけられる可能性もあります。女性のときだけ批判して、男性のときは批判しないというのは、暗に「女性は立場が弱いから攻撃する意見はきちんと批判して擁護しないといけない」という態度を表していると受け取られかねません。つまり、批判主さまは「女性は弱いものだと思っている/女性を差別している」という風に思われるかもしれないのです(少なくとも僕はそういう疑念を抱きます)。

 

そういうあらぬ疑いをかけられないためにも、意見に一貫性をもたせるというのは必要なことと僕は考えています。

 

後半の理由はややこじつけ感がありますが、本当に言ってることが一貫していないと信頼性を大きく欠きます。自分も気をつけていますが、できているかは自信がないです。

 

ただ、間違ったことはすぐに訂正できなければいけないので、一貫性を求めるあまり間違いを正せない人にはなりたくはないので難しくはありますが。

 

今回はこの辺りで。

微分の意味

微分積分なんて人生で何の役に立つんですか!」なんていうのは主に数学が嫌いな人から(?)よく叫ばれるような気がします。この中の「微分積分」がもっと大きな「数学」という言葉に置き換わることも多々あります。

 

確かに大人になって自らの手で微分の計算をする機会というのはまずないのかもしれませんが、改めて言葉にするのも憚られるくらいに、数学も、その一領域である微分積分も目に見えない形で人生の役には立っています。しかし、今回はそういうことを言う人に講釈を垂れるわけではありません。

 

微分の意味を考えて問題を解いてた人って結構少ないんじゃないか?」ということついて書いていこうと思います。

 

※先に断っておきますが、ここでするのは高校数学までの範囲のふんわりした話で、厳密な解析学の議論をしたいわけではない(そもそも真面目にやってないからできないという説がある)ので、ご容赦ください。

 

「グラフの概形を書け」「最大値(最小値)を求めろ」「極値をもつ条件を答えろ」など微分を使って解く問題はたくさんあります(もちろん微分を使わない場合もありますが)。

 

これらの問題で「なぜ微分を使って解くのか」ということを考えたことはありますか?

 

そしてそもそも「微分」とは何を表しているのでしょうか?

 

僕は高校生の時、数学の「そういうところ」ばかり考えていました。因果律的な考え方が好きなので(?)。その解法を採択した結果には必ず原因となる理由があるはずなんですよ。あなたがラマヌジャンのような人物でもない限り。

 

微分というのは傾きという概念と非常に関わりがありました。誤解を恐れずに言うと「ある関数の微分というのはある瞬間にその関数がどう変化していくかを表している」と僕は思うようにしています。ガバガバすぎて炎上しそうですね。

 

でも、自分の感覚で数学をつかむのも大事なことだとは思うんですよ。他の人にも「(厳密に正しいかは何とも言えないけど)何となく言ってることはわかる」くらいの感覚で。

 

なぜなら僕らは数学をプログラミング言語のように少しの文法の誤りも許さない形で書かずともその意味を忖度できるんですから。「yはxの関数」というステートメントに型エラーを起こしてる人もいましたが、そういう指摘は機械に任せれば良いと思うのです(もちろん、そういう指摘をせずとも本当の仕組みがどうなってるかを理解しておくのは大事ですが)。

 

話が逸れました。戻ります。

 

そんな意味をもった「微分」という道具を、問題の中でどう使っていくかが高校数学では大事になってくると思います。先ほどの3つの問題について、それぞれなぜ微分を使うのか見ていきたいと思います。

 

グラフを描く問題では、簡単なグラフ(初等関数の一部)であれば形は覚えていれば書けます。例えば3次関数を書けと言われると多くは山と谷を1つずつもつあの形が思い浮かびますよね。でもどれくらいの高さなのかはわからないし、どのタイミングで山の頂点、谷の底になるのかはわからない。

 

でも、微分した値を追いかけていくと、増加が止まり減少に転じたところが山の頂点になるし、減少が止まり増加に転じたところが谷の底になることがわかります。微分するとちょっとだけ詳細なグラフの情報を得ることができるのです。だから、グラフを描く問題で微分を使ったんです。

 

続いて、最大値(最小値)を求める問題ですが、これは最大化(最小化)の対象となる関数のグラフが書けるならばとても簡単です。グラフを見て一番高い(低い)ところの値を答えれば良いのですから。そして、先ほど言った通り微分を使うとグラフが描けるので、この問題でも微分が登場するのです。

 

最後に、極値が存在する条件を求める問題です。まず極値をというのはグラフでいう山の頂点(特に、極大値と言います)や谷の底(特に、極小値と言います)にあたります。

 

先ほども言った通り関数の値について、増加が止まり減少に転じたところが山の頂点になりますし、減少が止まり増加に転じたところが谷の底になりますから、この「増加と減少の切り替わり」が起きれば良いわけです。それを知る手がかりは「微分した値」であり、その値が「正から負」または「負から正」に変わるところが存在するように条件を決めてやれば良いのです。だから、この問題にも微分が絡んでくるのです。

 

以上、僕なりに思いつく微分を使う理由を書いてみました。明らかに間違ったことは言っていない……はず。

 

他にも、不等式の証明であったり、極限値を求める問題であったり、微分を使う問題は最初に言った通りたくさんあります。でも、そのひとつひとつに微分を使う「意味」があるのです。

 

本当に、学校の先生にはこの「意味」を理解させる教え方をして欲しいなあと思うばかりです。もちろん、個人の理解度に差はありますし、そういう考え方を学ぼうとしない子もいますし、いつまでもそこに時間をかけられない状況もわかるのですが……。

 

そういう「意味」を考えることが数学で身に付けて欲しいことなんじゃないかな、と個人的には思っています。相手を納得させる理由を考えるときに役立つ能力でもありますし(ロンリテキシコーリョク、ってやつですね)。

 

結局冒頭で言ってたことは嘘になっちゃいましたね。講釈垂れてすみません。

 

P.S. 数学でもなんでも、片足突っ込んであーだこーだ言ってるくらいが一番楽しいのかもしれませんね。

新しく何かを知ったときの"アレ"

みなさんは「新しく何かを知ると、その知ったことが急に身の回りに溢れているように思える感覚」というものを味わったことはありませんか?

 

僕はよくこの現象が起きます。特に新たに知った曲がテレビ番組のBGMなどで使われてると「あ!この曲こんなとこにも使われてるんだ!」と急に思いはじめるんですよね。有名な洋楽とか結構使い回されてるやつもあると思うんですけど、その曲名を知ってからBGMとして聞くとやたら色んなところで使われているように感じてしまいがちです。

 

この現象、一般的じゃないんですかね。調べてみてもしっくりくる言葉が見つからないというか……。

 

そもそも検索ワードに困りました。「新しいこと 知ったとき よく見かける」とか入れたら自己啓発系の検索結果がたくさん出てきまして……。色々組み替えても自己啓発のやつばっかり出てきて、最終的には「新しいことを知るとそれがたくさんあるように思える」みたいに文でサーチかけてました(もはや検索ワードではなく検索センテンス)。

 

最初に出てきたのが「シンクロニシティ」なんですけど、これはあまりにも普遍的な概念過ぎると思うんですよ。心理学でお馴染みのユングさんが提唱した概念で、日本語では「共時性」とかって訳されるみたいです。Wikipediaの冒頭には「意味のある偶然の一致」とか「因果関係のない2つの事象が、類似性と近接性を持つこと」とかって書いてあったんですけどいまいちよくわからないですね。それに「知る」ことでその存在に「気付きやすくなる」のには因果関係はありそうですし。

 

次に出てきた「カラーバス効果」は結構近いんですけど、その言葉自体の出自が怪しいみたいなんですね。これ英語のcolor(色)とbath(入浴)らしいんですけど、日本の本が元ネタではないかという話もあるんですね(詳しくは→インターネットで偉くなった「カラーバス効果」 - いろはに要検討)。

 

「カラーバス効果」の意味としては「注意を向けているものにより注意を向けてしまう」らしく、なんだか当たり前のことに名前をつけたみたいになってますね。これもなんだか普遍的な概念過ぎる気がします。

 

あと「カラーバス効果」に関係して「引き寄せの法則」とかってのも出てきたんですけど、これは生存バイアスかかりまくりの怪しい話かつ全然今回の現象に関係ないので無視しました(気になる方は調べてみてください)。

 

まあ出自がどうであれ「カラーバス効果」がまさに「新しいことを知ったときの"アレ"」を表してくれてるなら積極的に使ってやろうと思ってたんですけど、どうやらそうでもなく「効率的な情報の取捨選択」とかそういうのに生かせる性質みたいに扱われてるっぽいので、こいつもこの現象を形容しうるには足りないなあという結論に至りました。

 

結果、心理学を研究してる方々にこの現象の存在証明をして欲しいなあという気持ちになりました。今なら現象に名前をつける権利もあると思いますよ(???)

 

でも、どんな実験をしたら示せるんでしょうね?「奇妙な形の物体が描かれた絵で間違い探しして、その物体が何であるかを説明されたグループとされてないグループを作って再び同様の間違い探しをしてもらい正解率の変化を調べる」とか「ある複数の曲が同じ割合で使われている動画を2本用意して、使われている曲の中で被験者の知らない曲の名前やアーティストを教えた後と前でその変化を追う」とかすればこの現象の存在を立証できないですかね?専門外なのでよくわからないですけど。

 

もし「この現象すでに名前あるよ」というのをご存知の方がいればご教授頂けると幸いです。