「死にたいなら一人で死ね」に異議を唱えられた時のモヤモヤ

久しぶりの投稿になります。眠れなくなってAppleの発表が行われてるのを横目に見ながら書いてます。

 

さっそく本題です。

 

川崎市で起きた某殺人自殺事件で「『死にたいなら一人で死ね』という発言は止めてくれ」というのが話題になりました。

 

僕はこれ賛同できなくもないんですけどなんかモヤモヤするんですよね。

 

「他人に迷惑をかけない」という観点からすれば周りを巻き込んで死ぬよりは一人でひっそりと死ぬ方が正しいと思います(一人で死ぬのも他人に迷惑がかかるというのは置いといて)。

 

「死にたいなら一人で死ね」っていうのは僕が思うに鋭すぎる正論のように感じます。間違ったことは言ってないと(僕は)思います。本質だけを抜き取れば「できるだけ人様に迷惑をかけるな」ですから。

 

別に「死を選択肢に入れようかどうか」という人に「死ね」と言ってるわけじゃなく、「死を選択した」人に「一人でお願い」と言ってるわけなのでその人の死を願っているわけではないことは読解力があればわかります※1。

 

ただ「死ね」というフレーズが入ってるから問題視されたのであって、これが生と死の選択に悩んでる人を刺激するのではないかと、その結果同じような事件が起こってしまうのではないかという反発が生まれたんだと思います。

 

それは十分に理解できるんです※2。

 

でも、あまりにも馴染まない。

 

今の社会※3って殺伐としてるじゃないですか。店員さんに高圧的な態度を取る人はいるし、何か気に入らないことが起こればすぐにハラスメント案件になるし、車に乗れば煽り煽られのバトルになるし、幼稚園・保育園の子供の声や小学校の運動会の音がうるさいと苦情はくるし、公務員の給料が高いと他人に不幸を強いらないと気が済まない人はいるし。枚挙に暇がない。

 

かくいう僕も例に漏れず棘のある思考や発言をすることはよくあります(この記事もそうなのかもしれない)。

 

そんな社会の中で、明らかに犯人側に非があるのにそちらの肩を持つような発言をすれば批判が殺到して当然です。正論を取り下げろと言っているのですから。

 

すぐ隣にいる人に優しくできないのに、どうして顔も知らない希死念慮を抱えた人に優しくできるんでしょうか。あまりにも上滑りして聞こえてしまうんですね。

 

そもそも自殺願望が生まれる前にも優しくしてやれよとも思いますし。

 

「『死にたいなら一人で死ね』は言わないで欲しい」というのはあまりに今の社会にとって優しすぎる。これが違和感を覚えた理由の1つだと思います。

 

また、某殺人自殺事件でやってることは自爆テロと同じです。

 

直接の罪もない人を巻き込んで自分も死ぬというのは、最近はイスラム過激派に多い自爆テロそのものだと思います。

 

川崎の事件の動機は明らかにはなっていませんが、恐らく社会に対する恨みが引き金になっていると思われ、その点でも自爆テロと何ら変わらない行為です。

 

もし、「死にたいなら一人で死ね」反対派の人がこうした自爆テロの実行犯に対しても同じ姿勢を貫けるのなら納得はいくんですが、果たしてどうなのでしょう。

 

以上が僕のモヤモヤの原因かと思います。

 

もし同じようなモヤモヤを抱えている人がいればこれを読んで少しでもスッキリしてもらえたら幸いです。

 

最後に。

 

社会、もっと優しくなれると良いんですが。

 

まあこう言っている僕が優しくない思考・発言をしてこんな記事を書いている時点で無理かもしれないですね(笑)

 

 

 

今回はこれで。

 

※1精神的に追い詰められている人は誤解するかもしれないことは理解している。

 

※2でも自殺願望のある人ってそんな他人を殺すバイタリティに溢れているのだろうかとも思うし、生と死に迷う人よりか社会に恨みのある人を刺激しないようにという話なのかもしれない。

 

※3「今の」社会と言っているが、「昔の」社会がどうであったかは知る由がないので、少なくても今はそうだろうという意図であり、昔の社会が良かったという類の主張ではないことを断っておく。