ゴミのような気持ちです

本当に最近は新型コロナウイルスのせいで毎日ゴミのような気持ちで生きている次第であります。

 

今、日本の方針として、新型コロナウイルスに対してどのような接し方(生活様式)が求められているのでしょうか?

 

それは、新型コロナウイルスと共存していく生活(所謂「with コロナ」)だと思います(だからこそ某キャンペーンも前倒しにされたのだと思います)。

 

そもそも緊急事態宣言はなぜ出されたかというと、「感染のピークを抑えるため」でした。新型コロナウイルスに感染した人のうち「入院治療が必要な人数が医療機関のキャパシティを越えないよう」にあの日々を我々は過ごしてきたわけです。

 

まず、ここをきちんと理解していただきたい。決して、パンデミックを終焉させるためではない、ということです(もちろん、延長にパンデミックの終焉という目的があったとは思いますが、治療薬がなくて感染力の強い感染症によるパンデミックをそう簡単に終わらせることができるとは私は思いません)。

 

さて、上記の観点に立つと、マスコミはただ「感染者数」という少しばかりずれた数字に注目して毎日毎日報道を繰り返しております。

 

本来医療のキャパシティについて分析するには「空き病床数」や「入院治療を要する者」といった数字に着目すれば良いものを、なぜか「感染者数」に真っ先に注目しておられます。なぜでしょうか?ぜひどういう意図であの報道をしているのかご教示願いたいものです。

 

(まあ、感染者数の中身の細かい数字を追うのが大変なんでしょうね、マスコミの方々はお忙しいようなので。)

 

話が逸れました。つまり我々が今気にしなければならないのは「入院治療が必要になったとき、治療を受けられる医療機関が存在しているか」であって、「今の感染者数を見て外出を自粛するかどうか」ではないと思います。

 

だって、毎日のように満員電車に乗って仕事に行かなければならない日常に戻っているのですから。私自身既に感染していても不思議ではありません。

 

(だからこそ「休日は自粛しろ」という方々もおられるかもしれませんが、普通にそんな奴隷のような生活は私は嫌です。仕事のためだけに生きるのが美しい時代ではありません。)

 

また政府が「緊急事態宣言を出す状態にない」と言っている以上、まだ医療機関のキャパシティは大丈夫だということなのではないでしょうか。

 

であれば、経済は弱り、ストレスは溜まる自粛生活より、上手くコロナと付き合っていく(with コロナ)の生活の方が良くないですか?必要以上に新型コロナウイルスを怖がっててどうするんですか?

 

某キャンペーンも、前倒しにして大々的にやってくれたというのに、批判批判の嵐で萎えました。せっかく政府が感染拡大の責任を背負おうとしてくれてるのに、なぜ国民である我々が自由を自ら制限していこうとするのですか?(同じことは、緊急事態宣言下に「私権の制限を行え」という声にも思いましたが……。)

 

自分で責任を取りたがらないのか、何も考えずに生きているのかわかりませんが、どマゾの国民が多くて、うんざりしますね。

 

国の方針に従わない自由はあると思いますが、周りの国民を巻き込まないで欲しいものです。

 

本当に生き辛い世の中だとつくづく思います。変わって欲しいなあ、世間。。。

 

言いたいことが多すぎて滅茶苦茶な文章でどうもすみません。それでは。

PCR検査の実施体制は拡充すべきなのか?

今日はPCR検査について思っていることをひとつ。

 

(私は医療の専門家でも何でもないですが、現段階で知り得た情報を元に話を組み立てています。そのため、一素人の勝手な意見だと思ってお読みください。また、もし間違い等がございましたらご指摘いただけると幸いに存じます)

 

もっとPCR検査をしろと言って怒っている人があまりにも多い。それも専門家、素人問わず。

 

なぜそこまで検査しろと言うのか、私は理解ができませんでした。

 

だって、新型コロナウイルスに対する治療法は確立されていないのです(現状は対症療法しか存在しない)。つまり、病名が確定したところで必ずお医者さんが助けてくれる保障はないのです。そんな病名をわざわざ確定させたところで、何の意味があるのか。

 

また自力で病院に行ける程度の症状であるならば、入院させてもらえたとしても、最近有効かもしれないとされるアビガンやレムデシビルといった薬の投与もされないはずです(副作用の詳細が判明しておらず危険性が高いため)。得られるのは、医者がすぐに来てくれるというだけの生命の保障がない安心感だけです(個人的にはそのためだけに医療従事者の方々のキャパシティーを奪うのは嫌です)。

 

入院して対症療法しかできないのであれば、下手に病院に行って体力を減らすよりも自宅で大人しく療養した方が治りそうな気もします。

 

新型コロナウイルスに感染して退院した人も多く不治の病ではないですが、入院しようがしまいが、もはや今は自分の免疫力を信じるしかないのです。

 

さらに、PCR検査の精度は100%には遠く及びません(そのため退院には2回の陰性を必要としているのだと思います。それでも陽性患者が見逃される可能性はあると思いますが)。実際陰性という結果が出た方が亡くなられた後に陽性が判明するというニュースも耳にしました。

 

これを逆に言うと、偽陽性によって感染していないのに新型コロナウイルスが蔓延している病棟に送り込まれる可能性だってあるわけです。

 

それであるならば、わざわざ新型コロナウイルスに感染しているかどうか調べにいくのが馬鹿らしいと思ってしまいます(普通の風邪なのに、それで免疫が落ちた状態で検査を受けるために病院等に行き新型コロナウイルスをもらう可能性だってありますし)。

 

また、「これは新型コロナウイルスだろう」と思って陰性という結果が出たならば、それで安心して家に帰れるのでしょうか。それで症状が治まれば平然と街を出歩けるのでしょうか。決して偽陰性でないという保障はありません。

 

(PCR検査の偽陰性偽陽性について参考)

https://www.gohongi-clinic.com/k_blog/3873/#PCR

 

他にも「感染拡大を防ぐために」という理由でPCR検査を増やせと主張する方がおられますが、この理屈も私は懐疑的です。

 

無症状の人は(普通は)検査を受けようとしないため、仮にその人が新型コロナウイルスに感染していたとしても行動を制限することはできません。つまりウイルスの拡散が止められないことを意味します(だから自粛要請が出されていると思うのですが)。

 

風邪症状のある人(軽症者)は先ほどの理由でわざわざ病院に行くことが逆に感染リスクを高めます。

 

自力で動けない人(重症者)はもはや救急車で運ばれるしかないので、他人に感染を広げるとすれば家族ないしは医療従事者です。これは自粛が徹底されても防げない部分です。

 

また(あり得ない話ですが)国民全員がPCR検査を受けれたとしても、偽陰性偽陽性の可能性が少なくないのならば、これも感染リスクを減らすことにはつながらないと考えます。逆に人の動きを増やすことにもつながります。

 

(他にも、検査する人たちの安全が担保されていないのではないかという疑念もありましたが)大きくこれらの理由から、なぜそこまで検査を受けたがるのか、検査体制を拡充させたがるのか理解ができませんでした。

 

ただ、1つだけ検査数を増やせという理由で納得できるものがありました。

 

それは、新型コロナウイルスの流行がひとまず終息しているかどうかを調べるため、というものです。

 

100%の精度ではないといえ、検査数が一定であるならば、前日までの感染者数と比較すれば感染拡大が広がっているのか収まっているのかは判断できます。

 

しかし、陽性者数が減っていても検査数とあまり変わらない数いる状態、つまり陽性率が高い状態というのは、単純に検査数が足りていないから陽性者が減っている(ように見える)だけと考えられます。

 

そのため、緊急事態宣言を適切に解除するためには検査数を増やした上で陽性者数を見ないといけないのです。

 

この理由は納得できましたし、今は検査体制を拡充する必要があるとは思っています。

 

しかし、未だに疑問なのは、PCR検査が受けられていれば重症化しなかったはずだ!だから検査を実施数を増やすべきだ!という主張です。

 

これは本当に正しいと思いますか?治療法がないというのにどうやって重症化するのを防げると思うのですか??

 

医者は神様ではありません。医療は進歩しているとはいえ何でも治せるわけではありませんし、医療関係者の方々は日々救えなかった患者にも頭を悩ませているはずです。

 

だからこそ「検査をしろ!」と必要以上に医療現場にプレッシャーをかけるのではなく、ぜひとも冷静な頭で判断していただきたいと思います。

 

私たち素人が医療現場に対してできるのは文句を言うことではなく、自分の身体を強くして、なるべく外出しないようにして感染リスクを減らすことです。

 

ほとんど最後の数文が言いたいことの本質だった気がしますが、改めて書き終えるとなんだかスッキリしました。それではこの辺りで失礼します。

人工妊娠中絶は何がまずいのか

テレビなどにも出演している超優秀な某大生が中絶させた云々の話が少し前ポッと出てましたよね(あんまり話題になってないように思えましたが)。

 

そもそも、中絶は何が問題なんでしょうか。

 

個人的には、胎児の命を奪ってしまうといった倫理的な問題はほぼないと考えています。

 

それは、胎児の頃に自我があるかというと、そんな人はほぼ皆無だと思うからです。

 

僕は母のお腹の中にいたときの記憶はありません(あるかもしれませんが、思い出せません)。もしその時に仮に母が中絶していたとしても、僕自身に自我も何もなければこの世に存在したかどうかもわからずに一生を終えていたでしょう。

 

そこに人権だの倫理だのを考えようとするのは、いささか過剰のようにも思えてしまいます※1。

 

また、出生前診断ダウン症などと診断された場合にも、親は中絶するかどうか医師に問われます。障害があることがわかっているなら、それを回避する選択も可能だということですね。

 

最近よく「親の都合で産んだのだから子供の責任をもつのは当然」という言葉を聞くのですが※2、そんなことを言われるなら「親の都合で堕ろす」というのも正当化されないといけないと不公平だと思います。

 

立派に障害をもつお子さんを育てている親御さんもおられますが、やはり苦労も多く、親が亡くなった後はきょうだいが面倒を見なくてはならず、婚約が破談したりして人生がめちゃくちゃになったという話も残念ながら聞いたことがあります。

 

そんな中で「倫理的に反してるから」と第三者が口を挟んで選択を強制させることは良くないと思います。

 

以上の理由から、倫理的には問題はないのではないかというのが僕の立場です。

 

ですが、中絶の是非を問うポイントというのは別のところにもあります。

 

それは何より、母体である女性の身体的・精神的負担です。

 

中絶がどのようにして行われるかは次に示すリンクをご覧ください。

人工妊娠中絶について教えてください。 – 日本産婦人科医会

 

これを読めば、健康なはずの母体に本来かけなくてもよい身体的負担をかけなければいけないことがわかります。場合によっては次の妊娠に悪影響も与えかねないとも聞くので、とてもそれを良いとは思えません。

 

また、倫理的な問題に戻ってしまうかもしれませんが、中絶を受けなければその授かった命は生まれてくるわけですから、女性が人ひとりを殺めてしまったという感情を抱かないとも限りません※3。これは、かなりの精神的ダメージになり得ます。

 

短いですが以上の理由で、軽率に中絶をしてはならないのだと僕は考えます。

 

きちんと避妊をして望まない妊娠を防ぐのはもちろんですが、不幸にも中絶を選ばなくて良いように祈るしかないなと思いました。

 

それでは。

 

※1中には胎児の頃の記憶があるという人もいるらしいので、言いきってしまうのは乱暴だと考える。

 

※2某省の元事務次官の息子も似たようなことをTwitterで申していた気がする。

 

※3もちろん、そんな気持ちを抱く必要はないと僕は考えるが、優しすぎるが故にそういう気持ちになる人もいるだろう。

8%から10%への消費税増に反対する人へ

今年の10月に消費税の税率が8%から10%に引き上げられる予定になっていますね。

 

増税の話になるとやれ「景気後退」だの「弱者への配慮が足りない」だのという話が盛んになりますね。

 

いやそれ、本当にそうなのかと。印象だけで語ってはいないのかと。

 

今日は、それについて持論を展開したいと思います。

 

増税により増える負担

8%から10%への引き上げによる差分は2%です。みなさんは消費のうちの2%って、どれくらいか考えたことありますか?

 

例えば、最新の平均年収432万円だそうです。このうち2%の金額というのは、432万×0.02=8万6400円です。

 

当然1年間に自分の年収以上の消費をしていれば赤字になるので、1年間で実際支払う消費税の差額はこれより少ないはずです(ローンを組んだりすることで上回ることはあるかもしれませんが)。

 

また逆算すると、2%の差によって1万円の金額差が生じるのは50万円の品物を買ったときです。1000円の金額差が生じるのは5万円の品物を買ったときです。100円の金額差が生じるのは5,000円の品物を買ったときです。10円の金額差が生じるのは500円の品物を買ったときです。1円の金額差が生じるのは50円の品物を買ったときです。

 

「ちりも積もれば山となる」という言葉が好きな人にとってはこの差がすごく大きく見えるのかもしれませんが、実際に計算してみると消費税率アップよりも、単純な生産コストアップ等による値上げの方がよほど家計に響いてくると僕は思います。

 

税額の計算しやすさ

8%の消費税率で「565円の品物にかかる消費税を計算しろ」と言われて即答できる人は何人いるのでしょうか。

 

これが税率10%であれば、その人数はグッと増えることでしょう。なぜなら、桁を1つ減らせば求められるのですから。565円であれば56円です。

 

これはつまり、税込価格の計算が容易になる、ひいては買い物総額の計算がしやすくなるということです。少しでも安く見せようと税抜価格表示をしているお店では、この差が買い物時に効いてきます。

 

実際に支払う金額が即座にわかるというのは、支出を考える上で非常に重要だと思われます。そういう点では、8%から10%への消費増税は消費者にとってもメリットと考えられます。

 

そもそも増税する理由

消費税というものは使い道にある程度幅を持たせることができます。今回の増税分は、医療・福祉などの社会保障に使われる予定となっています。

 

もちろん、全額を消費税で賄うことはできません。足りない分は国債が発行されることになります。

 

「じゃあ増税しなくても国債発行すれば良いじゃん!」と思われる方もいるかもしれませんが、そうも言ってられないのです。

 

現在日本は、国債を返すために国債を発行しています。

 

また国債には「格付け」があります。ざっくり言うと信頼度です。格付けが低くなれば国債への信頼が下がるということですので、国債が買ってもらえない、つまり資金調達が上手くいかなくなる可能性があるのです。

 

もちろん、格付けはあくまで格付けですので「そんなの関係ないよ」と格付けが低くなっても国債を買ってくれる人がいれば問題はないです。しかし、そうは言っても格付けは高いに越したことはありません。

 

このような格下げを避けるためには、日本はちゃんと対策しているというアピールが必要なのです。そのためにも、できるだけ国債発行額を減らすために増税をしていこうということなのです。

 

まとめ

いくつか書きましたが、結局何が言いたいのかというと10%にするメリットとデメリットのどちらが大きいのかという話です。

 

もちろん単純には支出は増えることが予測されますが、それが大きく消費を渋らなければいけないほどの増分になっているのか。僕はそうは思いません。

 

また今回見送ったことで生じうる将来のリスクと秤にかけてみると、増税を見送る選択肢は現状僕の中には見当たりません。国債の格付けが下がったり、国債の額の増え方が緩やかにならないままというのはこれから何十年と日本で生きていきたい僕には見過ごせないリスクですから。

 

まあ以下本音を包み隠さず言うと「印象だけで無思考に必要以上に消費を控えたり、控えることを煽動する馬鹿にはならないでくれ」ということです。

 

消費が落ち込む落ち込むとばかりマスコミが騒ぎ立てて、実際どれくらい支出が増えるのかもロクに計算もせず出費を控える国民の行動こそが消費を落ち込ませていると思うんです。

 

だって、1週間で食費に2万円かけても2%アップなら400円だけ支出が増えることになりますけど、この金額って「あっ、今日昼寝てて飯食ってねえや」を1回すれば取り戻せる金額ですよね??

 

そんな金額のために普段必要なものの消費を押さえる理由がどこにあるんでしょうか。

 

家とか車とか普段必要でないもっと高いものは、例えば3000万円なら60万円余分に支払うことになりますが、こういうものは大半の人が一生に1度買うかどうかだと思いますし、じゃあ3000万のうちの60万ってどうなのよ?っていう話だと思います※1。下手したら親切な不動産屋さんを見つけたら逆転するかもしれないくらいの差ですよね(ほんまか?)。

 

具体的な金額を聞いてどう思われるかはわかりませんが、少なくとも僕は「増税前後で消費行動を大きく変える必要はない」と思います。それでも抑えたいと思う方はどうぞご自由にしていただければ良いですが、僕はそういう考え方こそ貧乏人への一歩なんじゃないかなと思います。

 

「安物買いの銭失い」という言葉を忘れずに生きていきたいものです。

 

最後の方は言い回しが雑になりましたが、今回はこの辺で。

 

それでは。

 

※1こんなことを言った僕だが、収入は学生並なので、増税する前に数十万のギターをもう1本買っておきたいところではある(差額は数千円であろうが)。ただ、増税した後もギターは多分欲しくなるから買うと思う。

三角関数は教えなくて良いのか?

大阪で知事とかやってた某人によると「三角関数は選択制で良い」そうですが、今日はそれに反論する格好の材料を見つけたので。

 

防衛省もやらかしましたね。

 

現在、秋田県の新屋演習場にイージス・アショアと呼ばれる陸上配備型ミサイル迎撃システムを配備する計画が進んでいます。複数ある候補地から新屋演習場が最適だとする根拠を示す資料に誤りがあったことが連日報道されています※1。

 

具体的にはどのようなミスだったのか一応軽く書いておきますと、イージス・アショアのレーダーを使用するには周囲に高い山などの遮蔽物があってはいけません。そのため、候補地となる国有地の周囲の山がどれくらい高いか(見上げたときにレーダーを遮蔽する角度ではないか)ということを調べる必要があります。この角度の算出にミスがあったということです。

 

ミスが発覚したのは、秋田県の新聞社である「魁(さきがけ)新報」という新聞記事で、とある新聞記者の方が防衛省の調査結果に誤りがあると指摘したことに端を発します。

 

県内で一番高い山(鳥海山・2236m)と、資料で取り上げられた山の1つ(本山・715m)の測量された角度がわずか2°しか変わらないことに違和感を覚えたことから、手計算をし直したところ資料の値と異なること結果を得たそうです。

 

後日、太陽と山の頂上が重なるタイミングから角度を算出してもやはり防衛省が示した値と異なり、専門家が調べても防衛省の値ではなく手計算の値と一致する結果が得られたことで、問題の発覚に至ったそうです。

 

こういう新聞記者の方は素晴らしいですね。数字の感覚もしっかり持ち合わせている教養、しっかり自らの手で足で検証して真実へと辿り着く姿勢。尊敬の念を抱きました。

 

さて本題に近づきますが、この角度の算出に使われるのが三角関数です。「選択制で良いじゃないか」と言われた三角関数です。

 

三角関数は、腐るほど世の中に使われています。今回のような測量技術にも使われますし、建物の設計なんかにも当然必要でしょうし、3Dの映像を動かすのにも使われています※2。

 

この新聞記者さんが学生時代理系だったのか文系だったのか、そもそもどんな成績だったのかは知りません。ですが、三角関数にどこかで触れていて「三角形の辺の長さから角度が出せる」というような、そういう知識があって、今回それを使うことで真相を明らかにできたわけです。

 

他方、防衛省はというと、なんとGoogleのデータ※3に定規や分度器をあてて角度を出したそうです。もちろん、この手法も縦と横の比が現実を反映している場合有効な手段なので、まったくダメなわけではありません。しかし、標高が1500mほど違う山に対して(横方向の距離が異なる可能性があるとはいえ)2°しか差が出なかったことに何の疑問を持たないのは非常に残念でした※4。

 

当然防衛省の人も三角関数を習ったはずですが、なぜか気づくことができませんでした。確かに、誰でもミスはしますし、僕も正直内部関係者として作業していれば100%おかしいと気づけるかはわかりません。

 

ですがそのときに、上で登場した新聞記者のような人材が必要なのです。間違っていることに気づき、きちんと指摘することのできる人が。

 

もしこの指摘がなければ誤った前提を元に配備計画が進み、国益を損なう結果につながったかもしれません。

 

そして、そういう人材を育てるために必要最低限の知識は教えるべきです。三角関数もその1つです。

 

別に三角関数のことを深く理解して使える必要はないと思います。数学を意識せずに数学を利用できるようになってきていますから※5。

 

でも、そういう概念があるということに触れずに育ってしまえば、今回のように問題があっても気付けずに知らず知らず不利益を被る可能性があります。まして、三角関数なんて身の回りに溢れているのに。

 

だから、勉強が大事なんです。きちんと生きるには、自ら考えるための体力を身に付ける必要があるんです。教える内容も、ある程度広さを保たなければならないんです※6。

 

そういう理由から、本当の天才で、数学を捨てても他の才能が余りある天才でない限りは三角関数を学ばせる必要があると僕は考えています。

 

以上、三角関数というか勉強をする意味というかについて軽く書いてみました。

 

正直僕が学生の頃はこんなこと考えてなくて「周りに負けたくない」が勉強のモチベーションだった気がしますが(笑)ラッキーでしたね。

 

それでは。

 

※1住民への説明会で居眠りした職員がいたが、資料のミスに対応するのに徹夜でもしてたのかと思う。だが、それならわざわざ説明会に出席しなくても良かったのにと思うし色々失望させられてしまう。

 

※2僕の浅い教養ではパッと浮かぶのがこれくらいしかなかった、残念。

 

※3ワイドショーで専門家も指摘していたが、そもそもGoogleマップじゃなくて国土地理院の地図を使えよとも思う。

 

※4仮にも国家公務員試験を通過しているはずなのに。

 

※5もちろん数学を利用する立場になりたいならきちんと理解する必要はあるが。

 

※6数ある省庁の中で文部科学省が一番大事と考える理由の大きな1つである。

審判にペナルティは必要か

連日の野球についての投稿になります。

 

昨日のセ・パ交流戦ソフトバンク-中日3連戦のカード最後の試合、8回表中日の攻撃。

 

走者なしから中日の大島選手が放った打球は高々と舞い上がり右翼手の頭上を越えライトフェンスを直撃。大きく跳ね返ったボールが外野を転々とする間に俊足の大島選手はホームへ突入。ボールを拾ったセカンド明石選手がホームへ送球しクロスプレーとなります。

 

判定は、アウト。確かに、タイミング的には完全アウトでした。

 

ここで、中日・与田監督がリクエスト※1を要求。審判団が映像を確認しに向かいます。

 

スローの映像を見ると、すごく微妙ですが、角度によってはヘッドスライディングでホームベースを狙った走者・大島選手の手が捕手・高谷選手のグラブが大島選手の肩に触れるよりわずかに早くホームベースに達しているようにも見えます※2。

 

しかし、長い中断の後、映像を確認した審判団がグラウンドに戻り下された判定は、アウト。判定が覆ることはなく、中日ベンチからは抗議の声が上がり、球場もざわめきました。

 

審判団は「(判定の)変更に値する確証を得られる映像がなかった」という理由で当初の判定通りとしたとのことですが、当方阪神ファンの僕でもセーフにして欲しいなと思いました。

 

明確に誤審とわかるものはもちろんのこと、こうした誤審ではないかという疑惑を含んだ判定が起こると「リクエストしても誤審をするなら意味がない」「判定を下した審判団にはペナルティを与えるべき」などといった声が聞こえてきます。僕も、贔屓チームの阪神に対してこのような判定を下されればどうしても同じ気持ちになることでしょう。

 

しかし、冷静になって考えてみると※3「誤審にペナルティを与える」のは判定の質を向上させるのに繋がるかというと、そうではないように思えました。

 

なぜなら、審判に「誤審である」と認めさせるハードルを高くしかねないからです。

 

審判もプロとはいえ人間なので、少なくとも毎試合両チーム合わせて27×2=54回のアウトの判定をする機会があれば常に正しい判定を下すのはなかなか難しいです※4。特に問題になっていない判定もスローで確認すればかなり微妙な判定も存在していると思います。

 

もしも誤審にペナルティを課せば、(十分に起こり得る可能性がある)誤審を認めることは審判にとってのリスクになります。特に今回のような明確に誤審とは言えない判定に対して積極的に判定を覆すことが少なくなってしまうことが予測されます。

 

もちろん誤審自体がなくなるのが理想ではありますが、重要なのは誤審を減らすことではなく、間違って下された判定が正しい判定に直されるかどうかだと僕は思います。

 

だから、誤審を認めさせるインセンティブにならないペナルティというのは、悪い意味で誤審を減らす効果はあると思いますが、良い意味で誤審を減らす効果はないと考えられます。

 

また同じ理由で、リクエスト制度自体も改善しなければいけない点があります。

 

それは、映像を検証して改めて判定を下すのが元の判定を下したのと同じ審判団であるという点です。

 

誤審に対してペナルティを与えろという声が強い中では、できるだけ誤審を認めたがらないようになってしまうので、自分で下した判定を支持し続けるという姿勢になってしまいます。

 

ですから、この体制を続ける限り「かなり微妙だが判定を覆してもよい映像」に対して、消極的な判定、つまり当初の判定通りというジャッジが下される可能性を高めてしまいます。

 

これを避けるためには、審判とは独立した立場の第3者が映像を確認して判定を下す必要があると思います。日本のリクエスト制度に当たる、映像による判定のバックアップ制度が先駆けて実施されているメジャーリーグでは確かこのような体制をとっているはずです。

 

日本もなかなかコストや人材確保が難しいのかもしれませんが、引退選手のセカンドキャリアとしてもこうした映像確認専門という職業があっても良いのかと思います。

 

ともかくリクエスト制度の改善は今後期待するとして、結論をまとめると、審判にペナルティを求める姿勢というのは改めた方が良いのではないでしょうか。

 

審判が誤審を認めやすくする環境を我々が作っていくことで、誤審はなくせなくても正しい判定を下そうとする姿勢を評価することで、判定の質は向上していくはずです。

 

それに、間違えても真摯な姿勢で正しい判定に覆す方が、誤審を誤審のまま通されるよりも、審判の威厳も保つことができると思います。

 

誤審を誤審のまま通せば選手からの信頼も失いますし、今の時代その事実は一気に広がり長い間人々の記憶にも残ってしまいますから。

 

ファンとしても、誤審がなくなるよりも誤審が正しい判定になってくれる方がすっきりと試合結果を受け入れることができますし。

 

まあここまで色々語りましたが、所詮僕にできること阪神の試合で誤審がないように祈ることだけですね(笑)

 

今回の記事はこれくらいで。それでは。

 

※1プロ野球には、2018年シーズンからリクエスト制度というものが設けられている。これはアウトの判定とホームランのフェア・ファウルに対し誤審があったと主張し、映像による確認を審判団に求めることができる制度で、毎試合各球団2回ずつ権利が与えられている。判定が覆ればリクエストを要請できる回数が減ることはない。また映像を確認しても判定を下すのが難しい場合、当初下された判定が優先される傾向にある。

 

※2大島選手の手のひらが上に反っているため、かなり微妙にはなっているが、それを考慮しても肩にミットが触れるより先にホームベースに到達している印象を受けた。

 

※3阪神が関わっていないために冷静な視点を持つことができた。

 

※4もちろん僕も、プロ野球の審判はプロなのだから常に完璧な判定を下すことを期待してはいる。

野球のギャンブルスタートとは?

2019年のセ・パ交流戦が6/4(火)から始まっています。

 

僕は阪神ファンなのですが、千葉ロッテとの交流戦開幕試合は大腸がんから復帰した原口選手のタイムリーヒットなどで11-3の勝利。原口選手が試合復帰した姿だけでなく、活躍を見れて万感の思いでした。

 

明けて翌日の試合。昨日と同じロッテ相手に5-4と1点ビハインドで9回表の攻撃を迎えます。この回の攻撃でロッテ守護神の益田投手から1アウト3塁という状況を作りバッターは高山選手。今日の話は、この場面での植田選手の走塁とベンチの指示についてです。

 

知らない方のために結果から申し上げますと、この試合、先程の場面で高山選手の打球はレフトへ飛びますが、レフトの清田選手がノーバウンドでライナーを捕球し2アウト、さらに3塁走者植田選手は打球が飛んだ時点でホームへと走っており、3塁へボールを転送され3アウト、5-4で阪神が負ける結果となりました。

 

状況だけ見れば植田選手のボーンヘッドです。もちろん、こういうミスは何とか勝利を掴みたいという思いが強すぎて起きるので、批判されることは仕方ないとは思いますが、必要以上に攻められるものではありません。

 

もっと問題だと思ったのは、試合後の阪神・矢野監督のコメントです。それによると「この走塁はベンチからのサイン」とのこと。僕は正直このコメントに疑問を覚えました。

 

矢野監督は今シーズン「積極的なミスは許す」というスタンスをとっています。僕はそれ自体はすごく良いと思っていて、近本選手が現在セ・リーグ盗塁数No.1なのもこのお陰だと思っています※1。

 

だから、もし植田選手をかばうのであれば、「『積極的に行け』というベンチからの指示が裏目に出てしまった」というのならわかりますが、「サイン」とはどういうことなのか。

 

ここで突然僕の野球遍歴を紹介させてもらうと、小学校6年から中学校3年までの間、野球部として、プレーヤーとして野球に触れてきました。それ以外の時期も、野球ファンとして、また阪神ファンとしてプロ野球の試合をはじめ春夏の甲子園などそれなりに野球に触れ続けてきました。

 

その中で、「(外野に打球が飛んでも)打球がバットに当たれば走り続けろ」なんていう作戦は聞いたことがなかったんです。

 

もちろん「ギャンブルスタート」といって「バットにボールが当たった瞬間に走者がスタートを切る」という作戦と、「ゴロGO」といって「バットにボールが当たり、その打球かゴロだとわかれば走者がスタートを切る」といった作戦があるのは認識しています。

 

ですが、これはあくまでスタートの話なので、スタートを切った後の判断は走者自身やランナーコーチに任せられるはずです。ボールインプレーの間は、監督のサインを見ている余裕などないからです。

 

だから、矢野監督が「サイン」を理由にして植田選手をかばうのは僕にとっては疑問だったのです。

 

阪神の采配に対する私見はともかく、この件に関する様々なコメントを見ているとギャンブルスタートという作戦の定義がよくわからなくなってしまいました。

 

どうやら、ギャンブルスタートをかけた以上、どんな打球が飛ぼうと走者は全力で次の塁を目指さなければいけないらしいんです。ライナー性の当たりであっても、打球の行方を振り返って走っていては打球がバウンドしていた場合に本塁を落とし入れることができないからだと。

 

ですが、僕はそれはギャンブルスタートではないと思います※2。

 

先ほどギャンブルスタートについての僕の認識を述べましたが、それだけでなく「ゴロ『GO』」や「ギャンブル『スタート』」という名前にあるように、この作戦は「スタート」についての作戦であって、その後のプレーまで考えていないはずです。もし考えてるのであれば名前が悪すぎるので「猪突猛進」とかそういう感じに変えた方が良いです※3。

 

以下、ギャンブルスタートの定義について議論があったところについて考察を加えていきます。

 

スタート後走り続ける是非

ライナー性の当たりで本塁セーフになれるかどうかという反論について。

 

まず、前提として打球の質(速度)・角度を見れば正確な着地点はともかくだいたいどのくらいの距離ボールが飛ぶのかは予測がつきます。素人の僕がわかるので、プロ野球選手なら当然わかると思います。

 

そして、フェアゾーンに飛ぶ打球をギャンブルスタートの作戦を考えるのに都合よく分類してみると、次の6種類に分けられると思います。打球が低い順に紹介していきます。

 

  1. ゴロ
  2. 低いライナー(内野手がノーバウンドで取れるか不明、つまり地面にバウンドするかもしれないライナー)
  3. 低いライナー(内野手がノーバウンドで取れる打球)
  4. ライナー(外野に抜けるかもしれないが、内野手が届くかもしれない打球)
  5. ライナー(外野に飛ぶ打球)
  6. フライ

 

野手がエラーすることを除けば、ギャンブルスタートを切ってセーフになる可能性があるのは1と2だけです。ボールが地面に落ちなければ、3塁フォースアウトになるからです。

 

理想を言えば3~6の当たりであればギャンブルスタートを切っても止まって帰塁できるのが良いでしょう。ですが当然、プレー中にこれらの6つを細かく分類することはできません。

 

しかし、3と4の間にはかなり明確に違いがあります。

 

それは、ボールの打ち出された角度を見ればわかります。少しでも上向きに、極端に言えば1°でも角度がついていれば打球は上がります。そして打球が上がれば、よほど打球速度が遅くない限りノーバウンドキャッチの可能性が生じます。

 

また打球速度も速ければ速いほど上に・遠くに飛ぶことになります。打球に角度がほんの少しでもついて、速度もそれなりに速いのであれば少なくとも内野手が立つ位置にはノーバウンドで打球が到達することは容易にわかります。

 

そしてギャンブルスタートを切るためには、打者がバットにボールを当てる瞬間に注目しなければいけません。当たった瞬間に目を切って打球を見れないはずはないので、打球の角度と速度の情報は自然と走者に入ってくるので、止まるかどうかの判断もできなくはないはずです。

 

では「絶対に止まらない」ギャンブルスタートを作戦として取るメリットですが、これは4の打球で内野手がエラーしたときに得点が自動的に入るという点につきます。もし4の打球で止まってしまえば、内野手がエラーしてもアウトになる可能性が生じるので、そこがネックになります。

 

しかし、ランナー3塁の状況であれば外野に抜ければ自動的に1点が入ります。もし打球が外野に抜けるのであれば打球が飛んだ瞬間に止まっても余裕で生還できます。

 

また、外野に抜けるかもしれないライナーを内野手がエラーするならば、打球速度がある程度出ていることからすぐに拾い直して送球できるところ(つまり目の前)に弾く可能性は低いと思われます。

 

さらに、エラーした時点で打者走者はセーフになるはずで、飛び出した3塁ランナーが挟殺プレーでアウトになるまでの間に打者走者が2塁、あるいは3塁まで進んでなおもチャンスになることも考えられます。

 

以上の点を考慮すると、外野に抜けそうなライナーに対して何も考えずに走って1点を得る可能性に賭けるよりも、外野にノーバウンドでキャッチされて3塁フォースアウトになるリスクの方が大きいと考えられます。

 

打者の役割

「ギャンブルスタートのサインが出ているなら打者はゴロを打つべきだ」という意見もありましたが、それもプロ野球ではあまりよろしくないと思います。

 

確かに、打球のよく弾む軟式野球や、守備力に不安の残るチーム相手であればゴロを転がせば点数を入る可能性が高いです。その場合には、無理矢理にでもゴロを転がす方が良いかもしれません。

 

ですが、あくまでプロ野球なので硬式球を使ってある程度最低限のレベルで守備力もあるはずなので、無理矢理ゴロを転がすよりも、前進守備で広く空いた内野手の間を鋭い打球で抜く方が得点につながる確率が高いと思います。

 

また、犠牲フライという可能性をなくしてしまうのも得点可能性を下げることになってしまいます。

 

これらの理由から、ギャンブルスタートのサインで打者が無理にゴロを打とうとするメリットは無いと思われます※4。

 

スタートを切るタイミング

僕はバットにボールが当たってからスタートするものだと思っていましたが、打者がスイングした時点でスタートを切るべきという意見もありました。

 

これはどういう意図で言ったのかわかりませんが、空振りしたらディレイドホームスチールとなり当然ランナーはアウトになる可能性が高いので、よろしくないと思います。

 

ですが、ある程度スイングと投球を見ればバットに当たりそうかの判断もできるので、当たる確信のあるスイングならスタートするというのはわかります。その方が少しですが早くスタートを切れますし。

 

でも、基本的にはバットに当たってからスタートが定石になるのではないかなと思います。

 

まとめ

考え始めると思っていたより長くなりましたが、まとめるとギャンブルスタートという作戦は、

 

  • ボールがバットに当たれば(当たると思えば)走り出す
  • 打球速度がある程度出ていて角度が少しでもついていれば止まり打球の行方を確認する、それ以外は全力で次の塁を目指す
  • 打者は自由にバッティングする

 

という定義にするのが最も得点可能性が高くなると思います。

 

以上、阪神-ロッテの交流戦の一幕からギャンブルスタートについて改めて考えてみました。

 

あくまで僕の考えなので、もし何か意見があれば議論したいのでブログのコメントでもTwitterのリプライでも何でもお待ちしてます。

 

それでは。

 

※1近本選手は盗塁数リーグNo.1であると共に盗塁死数もリーグワーストなのである(成功16、失敗9)。しかし1つ差で盗塁数リーグNo.2のヤクルト山田選手は盗塁死数0で盗塁成功率100%(成功15、失敗0)という驚異の数字を記録している。これは推測に過ぎないが、山田選手は確実に成功するときのみスタートを切っていると考えることができ(これこそが盗塁技術なのだろうが)、もしも近本選手のように積極的に盗塁を企図していればもっと盗塁数が多いかもしれないのだ。

 

※2あくまでプロ野球における話と考えていただきたい。阪神ロッテ戦に対する議論なのであるから。

 

※3誰かネーミングセンスを恵んで欲しい。

 

※4それに、転がすだけのバッティングならセーフティスクイズにした方が空振りの可能性が低くなるのではとも思ってしまう。